桃山発電所

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桃山発電所
桃山発電所
桃山発電所(2011年6月撮影)
桃山発電所の位置(長野県内)
桃山発電所
長野県における桃山発電所の位置
日本
所在地 長野県木曽郡上松町荻原字登玉
座標 北緯35度43分22秒 東経137度42分41.5秒 / 北緯35.72278度 東経137.711528度 / 35.72278; 137.711528 (桃山発電所)座標: 北緯35度43分22秒 東経137度42分41.5秒 / 北緯35.72278度 東経137.711528度 / 35.72278; 137.711528 (桃山発電所)
現況 運転中
運転開始 1923年(大正7年)11月25日
事業主体 関西電力(株)
開発者 大同電力(株)
発電量
最大出力 25,600 kW
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1919年(大正8年)から1939年(昭和14年)にかけて存在した大同電力による木曽川水力発電事業の経緯と発電所位置図

桃山発電所(ももやまはつでんしょ)は、長野県木曽郡上松町荻原にある関西電力株式会社水力発電所である。木曽川本川にある発電所の一つ。

形式は水路式発電所で、最大出力2万5,600キロワットにて運転されている[1]1923年大正12年)に運転を開始した。

設備構成[編集]

桃山発電所は導水路により落差を得て発電する水路式発電所である。最大使用水量37.57立方メートル毎秒・有効落差79.55メートルにより最大2万5,600キロワットを発電する[2]

取水堰は1か所あり、その高さ(堤高)は7.27メートル、長さ(頂長)は85.46メートル[3][4]。堰のゲートは3門の土砂吐のみで[4]、右端に設置[5]。堰右端にはゲートのほか魚道も備わる[5]。取水口も取水堰右岸にあり[5]上松発電所(1947年建設)にも直結して取水している[4]沈砂池は1か所設置[5]

取水口から上部水槽につながる導水路は総延長4,305メートル[4][5]。全区間がトンネルで構成されており[4][5]、1,200分の1の勾配がついている[5]。水槽から水車発電機へと水を落とす水圧鉄管は、長さ203メートルのものを2条設置[3][4]。水車発電機は2組あり、水車は立軸単輪単流渦巻フランシス水車を採用、発電機は容量1万4,300キロボルトアンペア周波数60ヘルツのものを備える[3]

発電所建屋は鉄筋コンクリート構造2階建てで、総面積は629.8平方メートル[4]

歴史[編集]

水利権の獲得[編集]

名古屋電灯・木曽電気製鉄・大同電力社長福澤桃介

桃山発電所付近にて最初に水利権を獲得したのは関清英を代表とするグループで、その許可は1907年(明治40年)4月にさかのぼる[6]。この水利権は翌1908年(明治41年)3月に名古屋電力(当時木曽川八百津発電所を建設中)へと譲渡され、さらに合併によって1910年(明治43年)10月、明治・大正期における名古屋市の電力会社名古屋電灯に引き継がれた[6]。「駒ヶ根」地点と呼ばれたこの水利権は、木曽川のうち福島町(現・木曽町)から駒ヶ根村(現・上松町)を経て大桑村へ至る区間が引用区間であったが[7]、1910年7月の計画見直しで「駒ヶ根」と「大桑」の2地点に分割された[6]

水利権の獲得程度に留まっていた木曽川中流部の開発計画が具体化されるのは、後年「電力王」と呼ばれた実業家福澤桃介が名古屋電灯の経営を掌握してからである[8]。「駒ヶ根」地点については、まず1915年(大正4年)10月、使用水量を既許可の500立方尺毎秒(13.81立方メートル毎秒)から800立方尺毎秒(22.26立方メートル毎秒)へと増加する申請を行う[6]。さらに翌1916年(大正5年)6月には引用区間を見直して「駒ヶ根」地点を「大桑第一」地点へと改め[6]、設計変更を出願した[7]。そして1917年(大正6年)11月、使用水量800立方尺毎秒にて「大桑第一」地点の水利権許可を得た[7]

水利権の許可後、1918年(大正7年)9月に名古屋電灯から開発部門が木曽電気製鉄(後の木曽電気興業)として独立したため、「大桑第一」地点の水利権も同社へと移されている[7]。さらに1921年(大正10年)2月、木曽電気興業は合併によって大同電力となった[9]。大同電力による実施計画策定の過程で、「大桑第一」地点は水路が長くなりすぎるとして上流の「駒ヶ根」地点と下流の「須原」地点に再分割され、さらに「駒ヶ根」地点については途中に名勝寝覚の床を挟むため上流を「寝覚」地点、下流を「桃山」地点として細分化された[7]

発電所建設と東西融通[編集]

「桃山」地点の開発は1922年(大正11年)に実行に移され、同年8月桃山発電所が着工された[5]。発電所名は当時の大同電力社長福澤桃介の名前にちなむ[5]。翌1923年(大正12年)に竣工、11月7日に通水の認可が下り、2台の発電機のうち1台が11月25日付で使用認可が下りたため運転を開始した[10]。残り1台も12月24日付で使用認可が下りて運転を開始している[10]。主要機器はいずれも輸入品であり、水車はスイスエッシャーウイス製、発電機および変圧器アメリカ合衆国ウェスティングハウス・エレクトリック製のものを備える[5]。当初の最大使用水量は1,300立方尺毎秒(36.17立方メートル毎秒)で[7]、発電所出力は2万3,100キロワットであった[5]

送電線は関西への送電用に、既設須原発電所との間を結ぶ路線が1923年11月に架設された[11]。さらに翌1924年(大正13年)1月には、関東地方への送電用に、東京電灯の送電線に接続する塩尻までの路線も建設されている[11]。関東地方は50ヘルツ、関西地方は60ヘルツと周波数が異なるが、桃山発電所は東西双方への送電に対応するよう、50・60ヘルツ両方で運転可能な水車・発電機が導入された[5]。こうした設備は日本で最初の試みであった[5]

完成後まもなく関東への送電が増加したため、50ヘルツ供給力の増強ならびに東西電力融通を図るべく、発電所構内に周波数変換器が2台設置された[5]。大同電力では桃山発電所の発生電力とこの周波数変換器による電力の合計約5万キロワットを自由に東西双方向へ融通できるようになり、例えば関東で渇水が発生した場合には契約以上の電力を同方面へ送電し、逆に関東で余剰電力が生じた場合にはこれを大同電力で買い戻して火力発電の代替として関西へと送電する、といった運用が可能になった[12]

建設後の変遷[編集]

1932年(昭和7年)7月に洪水被害のため下流須原発電所の取水堰が崩壊した際、取水堰を廃止して須原発電所取水口を桃山発電所放水口に直結するという形で復旧工事が実施された[5]。また1934年(昭和9年)4月には、設備に余力があるため使用水量を1,350立方尺毎秒(37.57立方メートル毎秒)へと増量とする許可を得た[7]。翌年5月、発電所出力が2万4,600キロワットへと引き上げられている[13]

1939年(昭和14年)4月1日、電力国家管理の担い手として国策電力会社日本発送電が設立された。同社設立に関係して、大同電力は「電力管理に伴う社債処理に関する法律」第4条・第5条の適用による日本発送電への社債元利支払い義務継承ならびに社債担保電力設備(工場財団所属電力設備)の強制買収を前年12月に政府より通知される[14]。買収対象には桃山発電所など14か所の水力発電所が含まれており、これらは日本発送電設立の同日に同社へと継承された[15]

日本発送電出資後の1944年(昭和19年)3月、2台あった周波数変換器の撤去工事が施工された[16]。撤去は50ヘルツ・60ヘルツ両用設備を持つ寝覚発電所や常盤発電所などが周囲に完成し使用機会がなくなったためで、撤去された変換器は1号機が山口県の彦島変電所へ、2号機が福岡県名島火力発電所へとそれぞれ移設されている[16]

太平洋戦争後、1951年(昭和26年)5月1日実施の電気事業再編成では、桃山発電所はほかの木曽川の発電所とともに供給区域外ながら関西電力へと継承された[17]。日本発送電設備の帰属先を発生電力の主消費地によって決定するという「潮流主義」の原則に基づき、木曽川筋の発電所が関西電力所管となったことによる[18]

木曽発電所による再開発[編集]

木曽ダム

関西電力発足後、木曽川中流部においては再開発が進められ、下流側から山口発電所(1957年)・読書第二発電所(1960年)が相次いで建設された[19]。これに続いて、中流部の水路式発電所5か所(寝覚・上松・桃山・須原・大桑)に関する再開発が計画され、この区間における河川利用率を向上させるとともに尖頭負荷発電所として運用させるべく、木曽ダムならびに木曽発電所(出力11万6,000キロワット)の建設が進められ、1968年(昭和43年)に竣工した[19]。ダムは木曽川との合流点直上の王滝川に位置し、水路は既設発電所群の水路の山側(西側)を通り地下式の木曽発電所を経て大桑発電所直上に設けられた放水口に至る[19]

その後1990年代に入ると、木曽川水系の発電所では1992年度より老朽化設備のリフレッシュ工事が始められ、その一環として桃山発電所においても1994年(平成6年)6月に更新工事が竣工、使用水量は従前と同一ながら発電所出力が1,000キロワット増強された[20]。改修後の水車は三菱重工業製、発電機は三菱電機製で、双方とも60ヘルツ専用である[3]。更新以後、発電所出力は2万5,600キロワットとなっている。

脚注[編集]

  1. ^ 関西電力の水力発電所 水力発電所一覧」 関西電力、2017年8月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月5日閲覧
  2. ^ 東海電力部・東海支社の概要 木曽電力所の紹介」関西電力、2017年8月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月5日閲覧
  3. ^ a b c d 『電力発電所設備総覧』平成12年新版197頁
  4. ^ a b c d e f g 水力発電所データベース 発電所詳細表示 桃山」 一般社団法人電力土木技術協会、2018年7月5日閲覧
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『大同電力株式会社沿革史』100-102頁
  6. ^ a b c d e 浅野伸一「木曽川の水力開発と電気製鉄製鋼事業」31-34頁
  7. ^ a b c d e f g 『大同電力株式会社沿革史』79-86頁
  8. ^ 『大同電力株式会社沿革史』6-14頁
  9. ^ 『大同電力株式会社沿革史』25-35頁
  10. ^ a b 「大正12年下半期(第9期)営業報告書」・「大正13年上半期(第10期)営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
  11. ^ a b 『大同電力株式会社沿革史』170頁
  12. ^ 『大同電力株式会社沿革史』189頁
  13. ^ 『電気年鑑』昭和11年版101頁。NDLJP:1114969/71
  14. ^ 『大同電力株式会社沿革史』414-418頁
  15. ^ 『大同電力株式会社沿革史』424-426・452-543頁
  16. ^ a b 『日本発送電社史』技術編179頁
  17. ^ 『関西地方電気事業百年史』939頁
  18. ^ 『関西地方電気事業百年史』504・606頁
  19. ^ a b c 杉山光郎ほか「木曾発電所工事とダム左岸砂れき層の処理について」
  20. ^ 東海電力部・東海支社の概要 発電所のリフレッシュ」 関西電力、2016年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月5日閲覧

参考文献[編集]

  • 浅野伸一「木曽川の水力開発と電気製鉄製鋼事業:木曽電気製鉄から大同電力へ」『経営史学』第47巻第2号、経営史学会、2012年9月、30-48頁。 
  • 関西地方電気事業百年史編纂委員会 編『関西地方電気事業百年史』関西地方電気事業百年史編纂委員会、1987年。 
  • 杉山光郎・松岡元一・原田稔「木曾発電所工事とダム左岸砂れき層の処理について」『発電水力』第94号、発電水力協会、1968年5月、50-75頁。 
  • 大同電力社史編纂事務所 編『大同電力株式会社沿革史』大同電力社史編纂事務所、1941年。 
  • 電気之友社 編『電気年鑑』昭和11年版(第21回)、電気之友社、1936年。 
  • 『電力発電所設備総覧』平成12年新版、日刊電気通信社、2000年。 
  • 日本発送電解散記念事業委員会 編『日本発送電社史』技術編、日本発送電株式会社解散記念事業委員会、1954年。