板倉重高

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板倉重高
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文6年12月11日1667年1月5日
死没 正徳3年2月10日1713年3月6日
改名 熊之丞(幼名)、重高
別名 重清[1]
戒名 浄泰院徳岩源芳大居士
墓所 愛知県西尾市貝吹町入の長圓寺
官位 従五下越中守、頼母[2]
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継
上総高滝藩主、備中庭瀬藩
氏族 板倉氏
父母 小出英知[3]、山崎氏[4]
板倉重宣
兄弟 重高小出英利英陳戸田氏利正室[5]
山内豊定松平近栄養女
安田氏
熊太郎[6]、豊次郎、昌信内藤正敬正室
特記
事項
賞延武鑑(正徳三年)、一統武鑑(宝永七年)、御林武鑑(宝永二年)には板倉重高は小出伊勢守英利二男と記載がある。また本朝武系當鑑(元禄八年、四年)、本朝武鑑(元禄元年)によれば、板倉重高は小出伊勢守の子とあり、小出家の方には小出伊勢守吉尚(吉尚は英利の初名)という記載もあるので、重高は小出英知の子である英利の子(つまり英知の孫)ではあるまいか
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板倉 重高(いたくら しげたか)は、上総国高滝藩2代藩主、備中国庭瀬藩初代藩主。重宣流板倉家2代。

略歴[編集]

丹波園部藩主・小出英知の三男[7]。母は山崎氏[8]正室は中村藩主・山内豊定の娘、継室は広瀬藩主・松平近栄の養女(岩沼藩主・田村建顕の娘、近栄の外孫)。側室に安田氏。子に熊太郎、豊次郎[9]昌信(次男)、娘(内藤正敬正室)。官位は従五位下。越中守。頼母[10]。幼名は熊之丞。

貞享元年(1684年)、高滝藩の先代藩主・板倉重宣が早世したため、その養嗣子となって跡を継いだ。元禄12年(1699年)2月、高滝から庭瀬藩に移封される。大坂加番となった。正徳3年(1713年)正月、大坂天王寺の常憲院に参拝中に病に倒れ、それがもとで2月10日に死去した。享年48。跡を次男の昌信が継いだ。法号は浄泰院徳岩源芳大居士。墓所は愛知県西尾市貝吹町の長円寺。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 本朝武系當鑑(元禄八年、四年)の板倉家系譜には重清の名で記載されている
  2. ^ 一統武鑑(宝永七年)、御林武鑑(宝永二年)、本朝武系當鑑(元禄八年、四年)、本朝武鑑(元禄元年)より
  3. ^ 賞延武鑑(正徳三年)、一統武鑑(宝永七年)、御林武鑑(宝永二年)には板倉重高の実父は小出英知ではなく、その子「小出伊勢守英利二男」と記載がある。
    また本朝武系當鑑(元禄八年、四年)、本朝武鑑(元禄元年)によれば、板倉重高は「実父小出伊勢守」とあり、小出家の方には「小出伊勢守吉尚」(吉尚は英利の初名)という記載もあるので重高の実父は英知ではなく、英利ではあるまいか
  4. ^ 武鑑記載通り、実父を小出英利とすれば母はその正室井上正利の娘となる。
  5. ^ 重高の実父を英利だとすると、兄弟は英貞(次男)、英雄(三男)、英治(四男)、娘(片桐貞経正室)となる
  6. ^ 御林武鑑(宝永二年)には、「板倉頼母重高 御嫡 板倉熊太郎」と記載がある
  7. ^ 賞延武鑑(正徳三年)、一統武鑑(宝永七年)、御林武鑑(宝永二年)には板倉重高の実父は小出英知ではなく、その子「小出伊勢守英利二男」と記載がある。
    また本朝武系當鑑(元禄八年、四年)、本朝武鑑(元禄元年)によれば、板倉重高は「実父小出伊勢守」とあり、小出家の方には「小出伊勢守吉尚」(吉尚は英利の初名)という記載もある
  8. ^ 実父を小出英利とすれば母は英利の正室井上正利の娘となる。
  9. ^ 一統武鑑(宝永七年)、賞延武鑑(正徳三年)より
  10. ^ 一統武鑑(宝永七年)、御林武鑑(宝永二年)、本朝武系當鑑(元禄八年、四年)、本朝武鑑(元禄元年)板倉家系譜より