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戸川安宣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
戸川安宣
時代 江戸時代前期
生誕 慶安元年(1648年
死没 延宝2年12月27日1675年1月22日
改名 土肥丞(幼名)、安宣
別名 玄蕃(通称
戒名 清性院殿覚庭円意大居士
墓所 岡山県岡山市南区妹尾地域の成隆寺
官位 従五位下土佐守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱
備中庭瀬藩
氏族 戸川氏
父母 戸川正安寺沢広高
兄弟 安宣安成[1]池田薫彰正室ら
有馬康純溝口重雄次女よめ
安風逵冨松平政舎
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戸川 安宣(とがわ やすのぶ)は、備中国庭瀬藩3代藩主。

略歴

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2代藩主戸川正安の次男。

寛文9年(1669年)、父の死去により家督を継ぐ。このとき、弟の安成に1500石を分与したため、2万1000石となる。六間川の開削工事をはじめとする農政に手腕を見せたが、在任5年後の延宝2年(1674年)12月27日に27歳で死去した。跡を長男の安風が継いだ。

東京創元社の会長を務めた同名の戸川安宣は、安宣の叔父である戸川安利(帯江戸川家)の子孫である。

系譜

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脚注

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  1. ^ 旗本。甥で当主の逵冨の子・戸川正方を養子とした。