松浦築枝

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まつうら つきえ
松浦 築枝
本名 大野 月枝 おおの-、出生名
松田 月枝 まつだ-、結婚後
別名義 松浦 月枝
生年月日 (1907-11-05) 1907年11月5日
没年月日 1999年
出生地 大韓帝国 釜山(のちの日本の旗 日本朝鮮釜山府、現在の大韓民国釜山広域市
死没地 日本の旗 日本
職業 女優
ジャンル 映画サイレント映画
活動期間 1925年 - 1965年
配偶者 松田定次
著名な家族 松田寛夫 養子
マキノ家
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松浦 築枝(まつうら つきえ、1907年明治40年)11月5日[1] - 1999年平成11年)[2])は、日本女優である。初期芸名は松浦 月枝(読み同)、出生名は大野 月枝(おおの-)、結婚後の本名は松田 月枝(まつだ-)である[1][2]

来歴[編集]

1907年(明治40年)11月5日大韓帝国釜山(現在の大韓民国釜山広域市)に「大野月枝」として生まれる[1][2]。1910年(明治43年、同地は日本領となり朝鮮釜山府となった。

やがて松竹キネマ柳さく子に演技を学び[1]、京都の松竹キネマ下加茂撮影所に入社した[1]

1925年(大正14年)5月、阪東妻三郎を筆頭に、等寺院の東亜キネマを抜け出た女優らがマキノ・プロダクション創設の報を聞き、マキノ映画上映舞台挨拶のため朝鮮に渡る。釜山についた阪東に、朝鮮でマキノ映画の配給をしていた櫻庭藤夫が「松浦を女優にしてくれ」と頼み、阪妻が了承[3]

同年6月、マキノ・プロダクション御室撮影所が発足、阪妻の世話でこれに移籍[1][2]。同年、「松浦月枝」名義で二川文太郎監督の『乱刀 前篇』に出演した。

1926年(大正15年)、同社社長の牧野省三の指示で改名[2]高見貞衛監督の『浪人地獄』から「松浦築枝」と名乗った[1]

西鶴一代女』出演時の松浦(中央)

1930年(昭和5年)12月以降のマキノ・プロダクションの経営難に際して、名古屋あるいは東京・浅草で他の所属俳優たちとともに舞台で活動し、収益金を争議資金に充てた[2]

1931年(昭和6年)には同社は製作停止せざるを得なくなり、最終的に解散となる。同年、新興キネマに移籍[1]

1932年(昭和7年)1月、牧野省三の息子の一人である松田定次と結婚し[2]、同年、代表作となる山中貞雄監督の『磯の源太 抱寝の長脇差』に出演する[1]。同年2月設立された正映マキノキネマ、同年11月からは宝塚キネマ興行、1933年(昭和8年)には太秦発声映画、1934年(昭和9年)にはエトナ映画社へと移籍した[2]

1935年(昭和10年)11月、マキノ正博マキノトーキー製作所を設立すると、夫の松田とともに参加した[2]

第二次世界大戦後は、マキノ光雄が経営陣にいる東横映画で活動。

1951年(昭和26年)、同社が他の2社と合併して東映が設立されると、東映京都撮影所の専属女優となった[2]

1965年(昭和40年)、引退[2]

1999年(平成11年)、死去[2]。満91-92歳没。

人物・エピソード[編集]

1929年(昭和4年)当時の雑誌記事によれば、当時の身長は「5尺1寸」(154.5センチ)、体重は「11貫400匁」(42.75キロ)、京都市外花園村(現在の市内右京区花園)在住とあった[4]

おもなフィルモグラフィ[編集]

1920年代
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代

[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年、p.189。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 菅家紅葉氏談話」、立命館大学、2009年11月5日閲覧。
  3. ^ 『映画渡世・天の巻 マキノ雅弘伝』(マキノ雅弘、平凡社)
  4. ^ 『日本俳優名鑑 - 映画俳優の部』、「芝居とキネマ」昭和4年1月号新春付録、1929年、「松浦築枝」の項。

外部リンク[編集]