松平直諒
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| 時代 | 江戸時代後期 |
|---|---|
| 生誕 | 文化14年10月5日(1817年11月13日) |
| 死没 |
文久元年7月19日(1861年8月24日)[1] または同年9月5日(同年10月8日)[2] |
| 改名 | 大助(幼名)→直諒 |
| 別名 | 嶺(俳号)、玉峯(画号)、浩斎(書号) |
| 戒名 | 成徳院殿賢道文哲大居士[1] |
| 墓所 | 島根県安来市広瀬町城安寺 |
| 官位 | 従五位下、佐渡守 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川家慶→家定→家茂 |
| 藩 | 広瀬藩 |
| 氏族 | 越前松平家 |
| 父母 | 父:松平直寛、母:内藤政韶の娘 |
| 兄弟 | 松平直諒、菅谷政徳、松平直審、蒔田定詢、松平直慈、米津政雅、河野道久、松平直行、町野直在、芦野資貞、松平直巳 |
| 妻 |
正室:宣姫(松平義和の娘) 継室:銑姫(青山忠良の娘) |
| 子 | 大橋某室、松平定法室 |
松平 直諒(まつだいら なおあき(なおよし / なおあきら))は、出雲広瀬藩の第9代藩主。直政系越前松平家広瀬藩分家9代。
経歴
[編集]有能で、俳諧・絵画・書道を嗜むなど多趣味な人物で、歴代藩主のほとんどが江戸に定府していたのに対して、直諒は嘉永3年(1850年)に父が死去して家督を継ぐと、ただちに国元に入って製糸業や製油業、和紙、鋳物、陶器、織物(広瀬絣)等の産業奨励、文化の奨励などを行い、領民に善政を敷いた名君であった。このため、領民も直諒を暖かく出迎えたという。文久元年(1861年)7月19日(または9月5日)に広瀬にて死去した。享年45。跡を弟の直巳が継いだ。
直諒の文化政策の遺構は、現在においても広瀬町に現存している。直諒だけが歴代で唯一、広瀬町に墓所が存在する。
