李文範
李文範 | |
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プロフィール | |
出生: |
1884年10月20日 (光緒10年9月初2) |
死去: |
1953年(民国42年)6月23日 中華民国 台湾省台北市 |
出身地: |
清 広東省広州府南海県 (現:仏山市南海区) |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 李文範 |
簡体字: | 李文范 |
拼音: | Lǐ Wénfàn |
ラテン字: | Li Wen-fan |
和名表記: | り ぶんはん |
発音転記: | リー ウェンファン |
李 文範(り ぶんはん)は、中華民国の政治家。中国同盟会、中国国民党(国民政府)に属し、胡漢民の側近でもあった。字は君佩。
事績
[編集]1900年(光緒26年)、自費で日本に留学する。1905年(光緒31年)、東京で中国同盟会に加入した。1906年(光緒32年・明治39年)6月に法政大学法政速成科第二班を優等生として卒業[1][2]。なお、同期には同じく優等生として卒業した汪兆銘(汪精衛)の他に胡漢民や古応芬、張一鵬、孫潤宇らがいる。帰国後、公立広東法政学堂で教員兼翻訳(通訳)となった。翌年、広東省同盟会会長となる。清末の同盟会の蜂起にも参加した。
1912年(民国元年)、広東省海軍軍務処秘書長兼都督府参議となる。翌年から袁世凱打倒の活動に従事し、二次革命(第二革命)や護国戦争(第三革命)にも参加した。1920年(民国9年)、フランスに留学している。
1924年(民国13年)9月、広東省政務庁庁長(当時の省長は胡漢民)に任ぜられた。翌年7月、広州国民政府秘書長兼中央委員会政治委員会秘書長となっている。同年9月、胡に随従してソビエト連邦へ視察に向かった。1926年(民国15年)に帰国したが、同年11月、今度はアメリカ合衆国へ党務視察に向かっている。
1927年3月に帰国すると、中国国民党中央執行委員会宣伝委員会主任委員に任命された。翌年6月、広東省政府委員兼民政庁庁長となっている。1928年(民国17年)10月、国民政府立法院立法委員兼秘書長に任ぜられた。翌年3月、国民党第3期中央執行委員に選出され、以後第6期まで継続して同職に選出されている。また第5期からは常務委員にも選出された。1931年(民国20年)12月、内政部長に任命されたが、翌年2月、退いている。1935年(民国24年)、国民政府委員に任ぜられた。
日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、国防最高委員会委員に任命されている。1940年(民国29年)11月から党政工作考核委員会主任委員兼党務処主任の他、党務の様々な要職を兼任した。1946年(民国35年)、制憲国民大会代表に当選する。翌年6月、司法院副院長に任ぜられた。1948年(民国37年)、行憲国民大会代表に当選している。
国共内戦で国民党が敗北すると、李文範は台湾に逃れた。以後、国民大会代表、党中央評議委員、党中央規律委員会主任委員、総統府資政などを歴任している。
1953年(民国42年)6月23日、台北市にて病没。享年70(満68歳)。
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 法政大学中国研究会編『中華民国法政大学留学卒業生人名鑑 法政大学創立七十周年記念』法政大学中国研究会、1949年。
- 法政大学大学史資料委員会編『法政大学史資料集 第11集 (法政大学清国留学生法政速成科特集)』法政大学、1988年。
中華民国
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