有森新吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
有森新吉

有森 新吉(ありもり しんきち、安政7年1月26日1860年2月17日) - 昭和8年(1933年11月18日)は、日本の衆議院議員立憲国民党庚申倶楽部)。実業家ジャーナリスト教育者

経歴[編集]

岡山藩士有森吉清の長男として岡山に生まれる。岡山藩藩学温知学校岡山変則中学校などで学んだ後、1879年明治12年)に商法講習所(現在の一橋大学)に入学した。1881年(明治14年)、専修学校(現在の専修大学)経済科に転じた。専修学校卒業後の1882年(明治15年)に東京大学に入学し、1885年(明治18年)に卒業した。その後、ドイツに留学し、イェーナ大学ベルリン大学テュービンゲン大学シュトラスブルク大学で学んで、1891年(明治24年)に法学博士号を得た[1]

1892年(明治25年)、学習院教授に就任。翌年、日本法律学校(現在の日本大学)幹事長となった。さらに翌年から函館商業学校校長・北海道函館中部高等学校校長を務めた。

1897年(明治30年)、大阪商船株式会社基隆支店長となり、翌年に神戸支店長に転じた。その後、京華日報社支配人を経て、山陽新報社主筆となった。1900年(明治33年)、岡山県会議員に選ばれた。その後、大阪に出て、韓国煙草組合の経営にあたった。1906年(明治39年)より川崎造船所会計課長を務めた[1]

1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。

1914年大正3年)より私立中学閑谷黌長となり、1920年(大正9年)まで務めた。さらに摂津紡績株式会社社長も務めた。

1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙で再選を果たし、第14回衆議院議員総選挙でも当選した。

1921年(大正10年)から1925年(大正14年)まで山陽新報社社長を務め、1927年(昭和2年)には川崎汽船株式会社取締役に就任した。

脚注[編集]

  1. ^ a b 朝比奈知泉編『財界名士失敗談 下巻』毎夕新聞社、1909年、pp.107-112

参考文献[編集]

  • 『岡山市史 第五』岡山市役所、1938年。