日本人留学生射殺事件

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日本人留学生射殺事件(にほんじんりゅうがくせいしゃさつじけん)とは、1992年10月17日アメリカ合衆国ルイジアナ州バトンルージュで日本人留学生が射殺された事件である。

事件の概略[編集]

当時高校2年生で16歳の服部 剛丈(はっとり よしひろ、1975年11月22日生まれ)は英語教師の母親の影響から幼い頃からアメリカに憧れを持ち、愛知県内の公立高校最難関の愛知県立旭丘高等学校に通っていた2年生の夏、交換留学 (AFS)を通じてアメリカ合衆国ルイジアナ州バトンルージュに渡米し、ホームステイ先で同じく高校生のウェブとその父親で大学教授のリチャードと母親で医師のホリーの暮らすヘイメーカー家の元で留学生活をしていた。

1992年10月17日夜の8時半、ウェブ・ヘイメーカーとともにハロウィンの衣装を着用し[1]ハロウィンのパーティーに出掛けた。仮装といってもメーキャップなどは一切しておらず、ダンス映画のサタデー・ナイト・フィーバーにおけるジョン・トラボルタの衣装としてタキシードを着ていたのみであった。ヘイメーカーは先日にプールに飛び込んだ際に首を痛め首にギプス包帯を巻いていた。しかし、訪問しようとした家と間違えて、ハロウィーンの装飾がしてあった、ガンマニアで敷地や近所で犬猫への射殺事件を繰り返すスーパーマケット従業員のロドニー・ピアーズ家の敷地に足を踏み入れてしまった。ピアーズの妻は、敷地内に入ってきた二人の高校生を発見し、夫に銃を持ってくるよう要求した[2]。妻の要求を受け、身長188cmの大柄の夫ピアーズ(当時30歳)は、相手が身長170cm程度の小柄の子ども2人にもかかわらず、玄関にあったライフル銃ではなく、わざわざ距離もあり往復、持ち出しに時間もかかる寝室まで取りに行きクローゼットの中から、家にあった6丁もの銃のなかの一つで、最近購入した、ライオンや熊をも撃ち殺せるほど威力、殺傷能力も高く重量のある大型拳銃マグナム、レーザースコープ付きのスミス&ウェッソン社製の.44マグナム(機種は不明)を持ち出した。マグナムは重く、威力も強すぎて反動により連射に時間がかかるため、アメリカにおいては、大口径のマグナム弾使用拳銃は護身用ではなく、大威力を好む銃愛好家向けの趣向品の銃と見なされている。

事件当時高濃度のアルコール飲料を飲むなどしていたピアーズは、酒に酔った状態でマグナムを二人に銃を向けた。「フリーズ(Freeze「動くな」の意)」と警告したとピアーズ側は主張している[3]

これに対し服部が「パーティーに来たんです (We're here for the party.)」と説明し、立ち止まらずピアーズの方に歩み続けたとピアーズ側は主張していたが、実際には、法医学的証拠により、服部はまったく動いていなかったか、ゆっくりとしか動いていなかったことが証明されている[4]。 ピアーズは服部に対して4回「ストップ (Stop!)」と叫んだとピアーズ側は主張している[3]。このとき米国人のヘイメーカーは、酒に酔った身長188cmの大柄の男が叫び声を上げながら高威力の拳銃マグナムを身長170cmの16歳の東洋人と首を痛め首にギプスを巻いていた自分らに向けるなど、状況が極めて危険であることが理解できたので、服部に動かないように呼びかけたと裁判において証言している。

そして、威嚇射撃を一切行わず、また足などへの狙撃もせず、ピアーズはいきなり丸腰の少年服部の胸部に向け銃を発砲した。弾丸は服部の左肺の上部と下部を貫き、第7肋骨のあたりから抜け出た。救急車が呼ばれたが、服部は出血多量により、車中で息絶えた[5][6][7]

ピアーズ側は、警告したにもかかわらず服部が近距離に接近してきたと主張しているが、距離や接近については矛盾が指摘され裁判でも争点となった。実際には、法医学的証拠により、服部はまったく動いていなかったか、ゆっくりとしか動いていなかったことが証明されている。さらに民事裁判において服部側のムーア弁護士は、ロドニー・ピアーズと服部の距離には矛盾があると指摘した。ピアーズ被告側のアングルズビー弁護士は2人の距離が90~150cmしかなかったと主張したが、実際はピアーズの腕の長さと全長21cmのマグナムを考えると2人の距離はそれに加えて更に1mはあったはずであり、ムーア弁護士が銃の専門家に確認すると、歩いてくる人間を至近距離で撃った場合撃たれた人間は歩く勢いで1mほど前に倒れ込むと言う。刑事裁判において専門家が出したという90~150cmという数値は、実際には銃口から服部までの距離であった。実際の専門家の鑑定によると、2人の距離は190~250cm離れていたことになるが、2人の距離は2~3mあるならばピアーズはただ後ろに下がりドアを閉めればよかったはずであるが、ピアーズは威嚇射撃もなくいきなり服部の胸に向けて発砲した。にもかかわらず弁護側はこの事実を伏せ、あたかもピアーズから服部の距離であるかのように言葉巧みに陪審員たちに伝え、無罪評決へと誘導した。

服部は身長170cm体重61kgに対しピアーズは188cmの長身に体重は84kg、体格差は明らかであり、そのうえ、熊をも撃ち殺せるマグナムを構えておきながら、恐怖を感じ、威嚇射撃や足などへの射撃もせず、いきなり急所へ向けて発砲したのは不自然であり、殺意があった証拠だとムーア弁護士は述べている。

撃たれたとき服部は敷地内に踏み込んでいたものの、屋内へ立ち入ったわけでもなく、玄関から少なくとも数メートル離れていた。

服部が手に持っていたカメラを凶器と誤認したなどと当初ピアーズ側は主張していたが、後に民事裁判においてピアーズは、服部が持っていたカメラに気づいていなかった、すなわち手ぶらに見えたと証言証言を翻した。なお、ピアーズは事件当時高濃度のアルコール飲料を飲むなどして酒に酔っていた。

その後の経緯[編集]

ピアーズは、日本の刑法では傷害致死罪に相当する「計画性のない殺人罪」で起訴されたが、同州の東バトンルージュ郡地方裁判所陪審員は12名(白人10名、黒人2名)全員一致で無罪の評決を下した。評決の理由は裁判において明らかにされていない。ルイジアナ州の法律では、屋内への侵入者については発砲が容認されているが、上記のとおり服部は屋内に入っていないため、通常は発砲は認められていなかった。にも関わらず無罪評決が出たが、それは正当防衛を認めたものか、傷害致死罪の構成要因を満たしていないと陪審員が判断した結果なのかは不明である[5]

ピアーズは当時銃を複数所持するガンマニアで、鹿狩が趣味と公言し、近所や自宅敷地での犬猫への射殺事件を繰り返し、二年間に200回以上もの射撃を行うなど銃愛好家で、動物射殺を日常の趣味としていたが、裁判後、ニューヨーク・タイムズの記者に対し「もう二度と銃を手にすることはないだろう」と語ったことがある[8]が、無罪判決のため、銃の免許の取り上げや所持していた複数の銃の没収は行われておらず、その後銃を手放したどうかは不明である。

この後行われた、遺族が起こした損害賠償を求める民事裁判では、刑事裁判とは正反対の結果となった。ピアーズが家に6丁も銃を持つガンマニアであり[9]、しばしば近所の野良犬や自宅敷地内に入ってきた犬猫を射殺しており、当日はウイスキーをコーラ割りして飲んでいたこと、妻の前夫とトラブルを起こしており、事件の前に前夫に対して「次に来た時は殺す」などと言っていたことなどが証明されたため、正当防衛ではなく、殺意を持って射殺したとして65万3000ドル(およそ7000万円)を支払うよう命令する判決が出された。翌年、同州高等裁も控訴を棄却したため判決が確定した[10][6]

ピアーズ夫妻は、何度も矛盾する証言を警察からの聴取や裁判で繰り返し、何度も証言を翻している。例えば、ピアーズは当初、過去二年間に銃を使用したことは一度もないと証言していたが、実際には二年間に200回以上もの射撃をしていたことが明らかとなった。

服部の両親は交換留学と友人たちの協力で「アメリカの家庭からの銃の撤去を求める請願書」に署名を求める活動を開始、1年余で170万人分を超える署名を集めた。1993年11月、当時のアメリカ大統領ビル・クリントンに署名を届けるために面会した。服部夫妻がワシントンD.C.に滞在していた間に、アメリカにおける銃規制の重要法案であったブレイディ法が可決された[11]

しかしその後、効力延長されず2004年に失効となった。

2012年10月18日、服部夫妻はルイジアナ州を訪れ、追悼式典、銃規制の会議に出席[12]。母親は「銃をめぐる状況は停滞しているが、希望が見えてきた。尊敬される米国になってほしい」と述べた[13]

ロドニー・ピアーズ及びその妻や親は、裁判所に命じられた賠償金65万3000ドルのうち、現在に至るまでその一切を支払っていない[6]。服部夫妻側に支払われたのは、ピアーズではなくピアーズが自宅にかけていた保険により保険会社から直接支払われた10万ドルのみである。

ピアーズは今回の事件により職場(ウイン・ディキシー・スーパーマーケット英語版)を解雇され、[3]借金まみれになった挙句、賠償金を一切支払わないまま自己破産した。

日米間の文化の違いを乗り越え相互理解してもらうことを目的に、服部の遺族は生命保険の支払い金を原資として、AFS留学生として日本に滞在するアメリカの高校生に毎年1人ずつ奨学金を提供する「YOSHI基金」を1993年6月に設立し翌年から毎年実行している[14]。服部の遺族はまた、賠償金の支払い10万ドルのうち、弁護士報酬および裁判費用を除いた4万5000ドルを原資として、「Yoshi's Gift」を設立し、アメリカ国内の銃規制団体を援助している[15]。1996年の初年度はバージニア州およびニューハンプシャー州の銃規制団体援助を実施、その後公式サイト上で1998年、1999年、2000年、2002年、2004年の活動を報告している[15]

在米中国人の女性映画監督クリスティン・チョイは『世界に轟いた銃声(原題:The Shot Heard Around the World)』というドキュメンタリー映画を製作した。この映画では民事訴訟におけるピアーズの様子のほか、殺害された服部の母親も出演している[16]。そこで彼女は息子を射殺した男性もまたアメリカの銃社会の被害者かもしれないと発言している。

バトンルージュでは銃規制団体が10月17日を「YOSHIの日」として祈念行事を行っている。[17]

AFSは、YOSHI基金を運営し、各種行事[16]や、活動内容を記事にして公開している。[18]

事件の背景[編集]

この事件は、銃を身近にある日常的なものとして暮らしているアメリカと、日常生活において銃を目にする機会がほとんどない日本とで、銃に対する意識が大きくかけ離れていることを互いに認識させる契機となった。

米国には銃で自らや家族を防衛すること(正当防衛)を容認する文化が存在し、このような社会においては、他人の敷地に許可なく侵入することの危険性、射撃の警告を受けた場合の対処の仕方(例えば警官に職務質問等において警告を受けた場合、絶対身体を動かしてはならない)等のアドバイスが外国人に対して必要ではないかという指摘もある[3]

困難を極めたブレイディ法の成立は服部夫妻の運動が影響を与え、その後服部夫婦はストップザガンキャラバン隊[19]に参加し、The Coalition to Stop Gun Violence (CSGV)[20]と連携して活動している。[11]

評論[編集]

映画評論家の大場正明は事件の背景として、銃社会のほかに、当時のアメリカの新興住宅地に蔓延していた犯罪への恐怖や人種偏見などを指摘している[21]

平和の石[編集]

1996年にバトンルージュのユニタリアン教会に本事件の記念碑「平和の石」が設置された[22]。「平和の石」は愛知県の造園会社を通してアメリカへ輸送されたが、送り主は不明である[22]

脚注[編集]

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  1. ^ ただし、このとき二人はメーキャップまではしていなかった(YOSHIの会HP)。
  2. ^ Kernodle, Katrina (2002年). “Gun Stance Highlights Cultural Gap between U.S. and Japan”. Frances Kernodle Associates. 2005年12月30日閲覧。
  3. ^ a b c d 『週刊文春』1993年6月17日号_世界初!_ピアーズ被告独占インタビュー「私はなぜ服部君を射殺したか」
  4. ^ Ressler, Robert. I Have Lived in the Monster. New York: St. Martin's Press, 1997, pp. 38–43
  5. ^ a b 賀茂『アメリカを愛した少年 ―「服部剛丈君射殺事件」裁判』 国立国会図書館サーチ蔵書検索講談社ISBN 4062067196
  6. ^ a b c フジテレビ放送 奇跡体験!アンビリバボー10月10日 オンエア公式ホームページ
  7. ^ Liu, J. Harper. “Two deaths, no justice”. Goldsea. 2005年12月29日閲覧。
  8. ^ “Acquittal in Doorstep Killing of Japanese Student”. The New York Times: p. 1. http://www.nytimes.com/1993/05/24/us/acquittal-in-doorstep-killing-of-japanese-student.html?pagewanted=all&src=pm 2013年12月4日閲覧。 
  9. ^ 銃の所持についてピアーズは鹿狩りが趣味で、そのために所有していたと日本のメディアに証言している(『週刊文春』1993年6月17日号)
  10. ^ チャールズ・ムーア 「独占手記:『服部君裁判』勝利の瞬間」国立国会図書館サーチ蔵書検索
  11. ^ a b ウィキソースに以下の原文があります。 en:Yoshihiro Hattori#afterwards
  12. ^ 朝日新聞2012年10月17日付朝刊
  13. ^ 朝日新聞2012年10月22日付朝刊
  14. ^ YOSHI基金
  15. ^ a b Yoshi's Gift Foundation”. Yoshi's Gift. 2016年3月6日閲覧。
  16. ^ a b 服部君事件から20年-銃社会アメリカのいま(名古屋)
  17. ^ `Yoshi Day' To Mark Anniversary
  18. ^ 平和のためにできること
  19. ^ ストップザガンキャラバン隊メンバー紹介
  20. ^ リンクとは別にCSGVリンク画像からリンク
  21. ^ 日本人留学生射殺事件とバトンルージュ郊外の状況――事件の背景にある社会の変化と郊外の緊張 - 大場正明Web Site、2010年9月7日
  22. ^ a b 酒井博章"「平和の石」寄贈どなた? 銃規制の象徴 米教会に設置 服部さん両親「感謝伝えたい」"中日新聞2016年12月31日付朝刊、社会面10版②、28ページ

出典・参考文献[編集]

外部リンク[編集]