族誅

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族誅(ぞくちゅう)は、封建時代の中国において、謀反など重罪を犯した者について、本人だけでなく一族についても処刑することである。

概要[編集]

族滅もしくは三族/九族皆殺しとも呼ばれる。

ただし、特定の一族・血族全体を対象とするのではなく、あくまで特定の重罪人への刑罰の付加刑として行われる。従って、族誅の対象も特定個人との親族関係を元に判断される。

の時代の記録に現れるが、正式に制度的な刑罰として定められたのは戦国時代になってからであり、その後の末期まで踏襲された。 中国以外では封建制度が栄えた朝鮮ベトナム日本でも行われたほか、1930年代にソビエト連邦スターリン政権による大粛清においても粛清者の家族への連座が度々行われた。

現代においてほとんどの国では廃止されたが、朝鮮民主主義人民共和国では建国以来度々行われている疑いがある。

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とは、本来は皇帝が直接的な正義の行使として行う死刑を指し、律令法においては「大逆不道」の罪を犯した者に対して行使されるとされるが、皇帝の大権として行われる性格が重要視され、必ずしも法律に則っているとは限らないことに注意する必要がある[1]

説文解字』では、"誅"を「討つ」ことを意味していると解説している。『孟子』(告子篇・下)には「天子は討ちて伐せず、諸侯は伐して討たず」という言が記されており、趙岐をはじめとする注釈者は討は上位者(皇帝)が下の者(諸侯)を懲罰する行為と解している[2]鄭玄は『周礼』(天官・大宰)の注釈において「誅は責譲なり」、『礼記』(曲札・上)の注釈において「誅は罰なり」と解釈して、問責・処罰を意味するとしている[3]

古代より中国では皇帝が正当な賞罰をすることが求められ、が「四罪」と呼ばれた罪人を処罰したことで天下が治まったという故事が知られている。また、『荀子』(宥坐篇)には孔子少正卯を殺害したときに、有徳の上位者が誅殺を行うことを肯定したことを記している[4]

戦国時代以降の法律整備と統一帝国の成立によって法律に基づいて死刑が実施されるようになり、皇帝の詔勅を必ずしも必要としなくなるが、皇帝権力の直接的な権力発動である誅殺も賞罰の権限の一部として依然として残されていた[5]

ただし、その命令が皇帝の正常な判断に基づいて出されるとは限らなかった。特に権力基盤が安定していない皇帝が自己に不都合な家臣に対して誅殺をしたり、権力者や皇帝の寵臣が皇帝の命令と称して政敵を誅殺する可能性があり、長い歴史の中で実際には無実であるにも関わらずそれらを目的とした誅殺がしばしば行われた[6]

三族[編集]

古代においては、謀反などの重罪については三族に対する族誅が最も行われたが、三族の範囲ははっきりしていない。

史記』秦本紀に「文公二十年、初めて夷三族の罪有り。」との記述があり、この三族について『史記集解』中で張晏は「父、兄弟及び妻子」と、如淳は「父族、母族及び妻族」と注している。一方で『周礼』春官宗伯の鄭玄注では「父、子、孫」としている。

一方で、『墨子』号令篇に「諸ろ罪有りて死罪より以上なれば、皆父母、妻子、同産に還る。」とあり『漢書鼂錯伝に「大逆無道なれば、錯まさに腰斬し、父母・妻子・同産も少長なく棄市すべし。」とあり、三族と明記されていないものの、父母・妻子・同居親族が族誅の対象であった記述もある。

三族への族誅は、秦代から行われており、『後漢書』楊終伝には「秦政酷烈にして、一人罪有らば三族に延及す。」との記述がある。

九族[編集]

九族については、『三字経』では高祖父、曾祖父、祖父、父、本人、子、孫、曾孫、玄孫としている。元曲の『賺蒯通』の一節に「律法有りて云う、一人造反せば九族全て誅さる。」とあるように、中世以降において、重罪犯は九族への族誅が行われることになっていたが、九族の範囲は必ずしも明確でない。

『唐律』では、謀反大逆の場合の族誅について、「父子にして年十六以上は皆絞す。十五以下および母女、妻妾、子の妻妾も亦同じ。」とあり、『大明律』では「祖父子、父子、孫、兄弟及び同居の人にして異姓を分かたず、及び伯叔父兄弟の子にして籍の同異を限らず、十六以上なれば篤疾廃疾を論ぜず皆斬る。」とあり、九族の定義と一致しない範囲の族誅となっている。

十族[編集]

方孝孺は、建文帝に重用された恩義から永楽帝の帝位を認めなかったため、面前で一族800人余りを処刑されたのち自身も処刑され、著作をすべて焼き捨てられた上に彼の門下生までも処刑・流罪となったとするが、疑わしい。この事件は「滅十族」と呼ばれたという。

日本[編集]

日本においては、平安時代末期から鎌倉時代にかけて武士の間で族滅が行われた。

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)[編集]

2013年12月に処刑された張成沢の家族・親族・姻族が幼児に至るまで一人残らず惨殺され、彼の係累は死滅させられたと報道されている。この他にも同国ではこれまでも連座などによる族滅処分が頻発しているのではないかと疑われている。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 古勝隆一「魏晋時代の皇帝権力と死刑―西晋末における誅殺を例として」(初出:冨谷至 編『東アジアの死刑』、京都大学学術出版会、2008年、pp151-178./所収:古勝『中国中古の学術と社会』法藏館、2021年、pp195-236.)2021年、pp205・208.
  2. ^ 古勝隆一「魏晋時代の皇帝権力と死刑―西晋末における誅殺を例として」(初出:冨谷至 編『東アジアの死刑』、京都大学学術出版会、2008年、pp151-178./所収:古勝『中国中古の学術と社会』法藏館、2021年、pp195-236.)2021年、pp205-206.
  3. ^ 古勝隆一「魏晋時代の皇帝権力と死刑―西晋末における誅殺を例として」(初出:冨谷至 編『東アジアの死刑』、京都大学学術出版会、2008年、pp151-178./所収:古勝『中国中古の学術と社会』法藏館、2021年、pp195-236.)2021年、pp208-209.
  4. ^ 古勝隆一「魏晋時代の皇帝権力と死刑―西晋末における誅殺を例として」(初出:冨谷至 編『東アジアの死刑』、京都大学学術出版会、2008年、pp151-178./所収:古勝『中国中古の学術と社会』法藏館、2021年、pp195-236.)2021年、pp206-207.
  5. ^ 古勝隆一「魏晋時代の皇帝権力と死刑―西晋末における誅殺を例として」(初出:冨谷至 編『東アジアの死刑』、京都大学学術出版会、2008年、pp151-178./所収:古勝『中国中古の学術と社会』法藏館、2021年、pp195-236.)2021年、pp207-208.
  6. ^ 古勝隆一「魏晋時代の皇帝権力と死刑―西晋末における誅殺を例として」(初出:冨谷至 編『東アジアの死刑』、京都大学学術出版会、2008年、pp151-178./所収:古勝『中国中古の学術と社会』法藏館、2021年、pp195-236.)2021年、pp207-210.
  7. ^ 平山 2017, p. 702.
  8. ^ 平山 2017, p. 712.
  9. ^
  10. ^ http://melma.com/backnumber_160538_3505017/ 歴史好きの素人が語る歴史 「第99話 『連座制』、この『むごい』もの(『御定書百箇条』から見た江戸時代)」[リンク切れ]

参考文献[編集]

  • 平山優 『武田氏滅亡』KADOKAWA角川選書 580〉、2017年2月24日。ISBN 978-4-047-03588-1 (電子版あり)

外部リンク[編集]