徳山則秀
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(徳山五兵衛から転送)
徳山則秀の肖像 | |
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 天文13年(1544年) |
死没 |
慶長11年11月22日 (1606年12月21日) |
改名 | 孫三郎→則秀→徳山則秀(改姓) |
別名 | 五兵衛(通称) |
戒名 | 二位法印秀現 |
墓所 | 法幢山 増徳寺 |
幕府 | 室町幕府、江戸幕府旗本 |
主君 |
織田信長→柴田勝家→丹羽長秀 →前田利家→徳川家康 |
氏族 | 徳山氏 |
父母 | 父:徳山貞孝 |
兄弟 | 四郎兵衛尉、則秀、秀貞 |
子 |
女(徳山英行正室)、直政 養子:英行(佐久間盛政息子) |
特記 事項 |
氏の「徳山」の読みをとこのやまから とくのやまへと改称し、家紋を土岐桔梗から丸に三つ地紙へ変更する。 |
徳山 則秀[1](とくのやま/とくやま のりひで)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。通称は孫三郎、五兵衛で、法名は二位法印秀現[2]。父は少左衛門貞孝。
生涯
[編集]天文13年(1544年)、徳山貞孝の子として美濃国で生まれる。徳山氏は途中で土岐氏からの養子が入ったため、清和源氏土岐氏庶流であるが、本来は東漢姓坂上氏[3]の庶流で、美濃国大野郡徳山の土豪であった。
はじめ斎藤氏に属したと思われ、後に織田信長に臣従し、柴田勝家の与力となる。一向一揆など北陸地方の平定に尽力し、加賀国松任城4万石の主となる。信長死後も勝家に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政隊の先鋒として奮戦した。戦後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に赦され、丹羽長秀に仕えた。その後、主君・丹羽長重が減封された時に召し放たれて前田利家に仕え、天正13年(1585年)に末森城の戦いに従軍して佐々成政と戦った。早くから徳川家康に通じ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い直前に前田家を出奔し、家康に仕えて5,000石を領した。
慶長11年(1606年)、死去。子孫は旗本として続いた。また岡本綺堂の「箕輪心中」の題材となった心中を起こした藤枝教行も子孫の1人である。
徳山氏
[編集]徳山氏 | |
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丸に三つ地紙 中陰三つ割り桔梗 | |
本姓 | 坂上氏→美濃源氏 |
家祖 | 徳山貞信 |
種別 | 武家 |
主な根拠地 | 美濃国大野郡徳山郷 |
著名な人物 | 徳山則秀 |
支流、分家 | 河合氏 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
徳山氏(とくのやまし/とこのやまし/とくやまし)は、坂上姓と美濃源氏土岐氏の流れをくむ日本の氏族。家紋は丸に三つ地紙、中陰三つ割り桔梗[4]。祖は徳山貞信である。徳山貞信は延元2年(1337年)、徳山村の本郷に居館、揖斐川西岸の山に徳山城を築いて居城とした。
系譜
[編集]徳山氏系譜[5]