弥生墳丘墓

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弥生墳丘墓(やよいふんきゅうぼ)は、弥生時代後期に盛んに築造された墳丘墓盛土をした墓)のことで、終末期になるとさまざまな点で古墳時代前方後円墳に継承される諸要素を備えるにいたるとされている。

概要[編集]

弥生時代の終わり頃に盛り土をした墓が築造されるようになった。径15メートルぐらいの円丘、 一辺20メートルぐらいの方丘が作られた。例えば、岡山市津島の都月坂2号弥生墳丘墓は尾根の鞍部に築造され、辺約20×17メートル、高さ約2メートルの平面ほぼ方形である。

これら弥生墳丘墓の中には前方後円墳の前方部のような突出部が付く墳丘墓も出てくる。つまりこの頃になって墳丘の大型化と突出部の形成が始まる。

系譜[編集]

弥生前期に出現する方形周溝墓、方形台状墓、円形周溝墓の3形式が基本で、後期に円形台状墓が加わる。

方形・円形周溝墓は、墓の四周に溝を掘り主に平地に築かれ、墓の周囲の地山を削り出す台状墓は主に丘陵上に築かれた。その他の墳丘墓も三形式の変容型として地域型[1]、階層型[2]、複合型[3]などに区分することができる。そして、特徴は、首長墓の出現と展開であり、地方色の顕著な現れである。それは、各地における首長層の成長と、地域的・地方的段階での政治的結びつき(首長連合)の形成過程であった。

弥生時代前期から中期においては、西日本の各地に各種の墳丘墓が拡がるが、墳丘規模に大きな格差のない段階である。方形周溝墓は畿内から近江、伊勢湾沿岸の東海西部に定着し、西は播磨から東は関東・北陸の西部まで買う算する。円形周溝墓は瀬戸内中部に出現し、播磨に拡がり、その後は徐々に東に拡がる。方形台状墓は近畿北部・北陸・東海の一部に出現する。

弥生時代中期後葉から後期前半にかけては、墳丘規模に格差が広がり、墳長20メートル以上の大型墓が出現する。それらは首長・地域有力者の墓と推定される。また、中国地方北部や山陰、近畿北部に地域的特色を有する墳丘墓が築造されだした。この時期から次の時期にかけて石器から鉄器使用が本格化し始める。朝鮮半島南部で産出する鉄素材の流通機構の移行・再編が地方レベルまでおよび、首長層の政治的連合や同盟が、これまで以上に推進したと考えられる。

弥生時代後期後半から終末期にかけては、一部の墳丘墓で突出部が発達し、首長墓専用の墳形が成立する。一方では他の墳丘墓が小型化し、さらに最下層墓が密集型土抗墓となっていく。共同体の階層分化が急速に進行し、共同体村落の環濠集落が解体の道をたどる。各地には核となる墳丘墓が現れて地域が連合し、さらに地方が連合し、それらの段階で共通の墳丘墓型式を採用することにより他地方との区別を明確にしていったと推定する[4]

各地の墳丘墓[編集]

北部九州[編集]

佐賀県吉野ヶ里遺跡の墳丘墓は、南北約46メートル、東西約27メートルで長方形に近く、高さ4.5メートル以上あったと推定されている。墓壙を頂上から掘って14基以上の甕棺を埋置している。甕棺は弥生時代中期のもので、この時期に何故大型墳丘墓が出現したのかについてはまだ明確に分かっていない。中期後半では、王墓が出現する。福岡県三雲南小路遺跡は溝で囲まれ、一辺30メートル以上の墳丘で王墓と推定され、2基の甕棺から57枚の以上の中国鏡が出土している。後期にかけても立派な副葬品をもった墓が発見されているが、墳丘が破壊されているため墳丘墓としての実態をつかめない。

山陽[編集]

兵庫県揖保川町養久山5号弥生墳丘墓は、墳長約20メートル、前後に突出部が造られており、高さ約1.5から2メートルと推測される。なかでも突出部を含めた墳丘の長さが80メートルくらいの墳丘墓が現れた。それは岡山県倉敷市の楯築弥生墳丘墓であるが、円丘の高さは約4.5メートルもある。突出部には列石が2列に巡らされていた。

山陰・北陸[編集]

四隅突出型弥生墳丘墓は、広島県北部から山陰地方、および北陸地方で盛んに造られた大型墳丘墓である。突出部の起源は、弥生時代中期後葉まで遡る。島根県出雲市西谷3号墳弥生墳丘墓は、東西の辺約40メートル、南北の辺約30メートル、高さ約4.5メートルという大きなものもある。また、島根県安来市でも、仲仙寺、安養寺、塩津山の墳墓群で多く見られ、日本最大の四隅突出墳丘墓の集中地帯となっており、古墳時代まで続く様々な形の首長墓が造られている。

丹後(近畿北部)[編集]

近畿地方北部の丹後地域に、豪華な副葬品をもつ大形の墳丘墓が弥生時代終末期に出現している。それは京都府赤坂今井墳丘墓で、37×35メートル、高さ4.2メートルほどの方形墳丘墓である。墳頂中央には巨大な墓壙が発見されているが、棺などはまだである。出土土器から3世紀初めで、この地域の政治的集団の王の墓であろうと推定されている。丹後は日本海沿岸にありながら上述の山陰・北陸とは異なり、四隅突出型墳丘墓の分布がみられない地域である。

近畿中央部[編集]

奈良県のホケノ山古墳は前方後円形の墳丘で、弥生墳丘墓であるとする見方と古墳時代のものとする見方が出されている[5]

東海[編集]

弥生墳丘墓から前方後円墳へ[編集]

墳丘墓の突出部が一見前方部の原形のようになってくるのは、中国山地では弥生中期後葉から、山陰では後期後葉から、北陸では少し遅れ、吉備では後期後葉からである。

以上のように、弥生時代後期後葉には、弥生墳丘墓が地域ごとに独自な形式で成立するとともに、地域ごとの祭祀的世界や政治的勢力が形成されていたと考えられる。そして、古墳時代に入ると前方後円墳が巨大化し、突出部は、前方部に整えられていく。さらに、墳丘の形と規模において格差が明瞭に現れて、前方後円墳・前方後方墳・円形・方形といった前方後円墳体制を形成する[6]

祭祀土器[編集]

弥生墳丘墓は地域ごとの部族の首長の墓であることが多いが、弥生時代後期後半に、吉備地方(岡山県と広島県の東半分を併せた地域)において、その弥生墳丘墓での埋葬祭祀に特殊器台・特殊壺と呼ばれる土器が作られ使用された。 これらの土器の最古級は、楯築弥生墳丘墓から出土している。特殊器台は高さ約1.15メートルもあり、これに酒を入れた特殊壺を乗せると高さは約1.5メートルにも達する。特殊器台・特殊壺は立坂型、中山型、矢谷型と次々に新しい型のものが登場する。矢谷型特殊壺の底は焼く前に底に大きく削り取られて孔が開けられ、酒を入れるものでなくなっている。これらがやがて宮山型を経て都月型円筒埴輪・特殊型土器埴輪になっていく。文様が抽象化され、形が簡素な物に変化するが、墳丘に配置する量が増え、祭祀が盛大に行われるようになる。

棺と槨[編集]

弥生墳丘墓の棺は短く、内法で約2メートルの組合せ箱形木棺が盛行する。北部九州などでは組合せ箱式石棺が使われる。棺を納める槨も棺に応じた長さで、木槨・石槨がある。最終的には石槨が使われ、前方後円墳の石槨に繋がる。楯築弥生墳丘墓の木槨は長さ約3.5メートル、木棺の長さ約2メートルで、木槨は二重底になっている。

最古式の前方後円墳(出現期古墳)が出現する頃には、槨が石槨になり、木蓋は石蓋に変わり、棺も割竹形・箱形と格差が現れる。

副葬品[編集]

種類が貧弱で、やりがんな1本、あるいはガラス小玉2、3個、鉄剣1本しか埋葬されていない場合もあり、何も副葬されない埋葬が多い。最大の楯築弥生墳丘墓でも、剣1本、首飾り2連、小玉小管玉群一括にすぎなかった。

ところで、北部九州の弥生時代前期末、中期の副葬品は多くの韓製銅剣銅矛銅戈などの青銅器、大陸製の青銅器や璧(へき)、その他玉類などが豊かであった。しかし、後期後葉には、副葬の慣習が変化したのか副葬品が吉備や出雲と同じく貧弱になった。その理由について、今日よく分かっていない。

しかし、古墳時代に入ると、副葬品の量・質・ともに豊かになり、身分の差を表現するようになったと考えられている。

脚注[編集]

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  1. ^ 貼石方形台状墓、四隅突出型方形台状墓など
  2. ^ 前方状方形墳丘墓や前方後円墳丘墓など
  3. ^ 貼石方形周溝墓、四隅突出型方形周溝墓、丘陵上の方形周溝墓など
  4. ^ 和田晴吾(2004)
  5. ^ 本古墳について、寺沢薫は、箸墓古墳よりも先に築造された6基の「纒向型前方後円墳」の中にふくめている。寺沢薫(2000)
  6. ^ 渡辺貞幸(2007)

出典[編集]

  • 渡辺貞幸「古墳の出現と発展」奈良文化財研究所編集『日本の考古学』学生社、2007年4月。ISBN 4-311-75038-2
  • 和田晴吾「古墳文化論」歴史学研究会・日本史研究会編『日本史講座 第1巻 東アジアにおける国家の形成』東京大学出版会、2004年5月。ISBN 4-13-025101-5
  • 寺沢薫『日本の歴史02 王権誕生』講談社、2000年12月。ISBN 4-062-68902-2

参考文献[編集]

関連項目[編集]