平田家 (伯爵家)

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平田家
家紋
家祖 平田東助
種別 華族伯爵
出身地 出羽国
主な根拠地 東京市神田区駿河台
東京都港区南青山
著名な人物 平田東助
平田英二(松堂)
支流、分家 平田昇家(平民)
凡例 / Category:日本の氏族

平田家(ひらたけ)は、明治から大正期の政治家・官僚平田東助の勲功で華族伯爵家に列した[1]

歴史[編集]

正二位勲一等伯爵平田東助

平田東助は嘉永2年(1849年)に出羽国米沢藩の藩医伊東昇迪の次男として生まれ、8歳の時に同藩藩医平田亮伯の養子に入ったことで平田姓となったが、明治11年(1878年)に故あって平田家と離縁し、別に新たな平田家を起こした。そのためこの平田家は東助をもって始祖とする家である[2]

東助は明治初期に大学南校に入学し、ついでドイツのベルリン大学ハイデルベルク大学に留学して帰国した後[3]内務省に入省して官僚となり、ついで大蔵省へ転じて、明治11年(1878年)に大蔵権少書記官兼太政官権少書記官に就任した[4]。明治15年(1882年)の伊藤博文の渡欧にも随行[4]。この後は主に法制局官僚として活躍し、憲法制定はじめその他多くの法律の制定に関与した[4]。明治23年(1890年)には貴族院の勅選議員にもなり、院内会派の茶話会幸倶楽部の指導にあたり、山縣有朋の腹心となる[4]。明治31年(1898年)に法制局長官に就任するとともに枢密顧問官となる[4]

明治34年(1901年)には第1次桂内閣農商務大臣として入閣し、現在の農業協同組合の前身である産業組合の発展に尽くす[4]品川弥二郎とともに信用組合の設立にも尽力。明治37年(1904年)には大日本産業組合中央会を組織して産業組合の父と呼ばれた[4]。また明治35年(1902年)2月27日に日英同盟の功により華族男爵に列せられた[1]

明治41年(1908年)の第2次桂内閣にも内務大臣として入閣したが、大正2年(1913年)に桂太郎が政党組織に踏み切ってからは、これを警戒して貴族院をリードして政党政治に対抗し、寺内正毅を擁立して寺内内閣を成立させ、同内閣下で外交調査会委員や臨時教育会議総裁に就任した[4]。明治43年(1911年)8月24日に多年の功により子爵に陞爵した[1]。後ろ盾である山縣が没した後も権勢を維持し、大正11年(1922年)には内大臣に就任して西園寺公望元老を支えた[4]。同年9月25日に宮中奉仕の功により伯爵に陞爵した[1]。位階勲等も正二位勲一等に叙せられた[5]。しばしば首相候補に名前が取りざたされる人物であったが[4]、ついに組閣することなく、大正14年(1925年)4月14日に死去した[6]

東助の夫人は勝津兼亮の四女で品川弥二郎子爵の養女タツ。夫妻の間の次男英二(明治15年2月2日生、昭和46年6月9日没)が同年6月15日に平田家の爵位と家督を相続[6]。彼は東京美術学校卒業生の日本書家で、松堂と号した。文部省美術展覧会委員、東京美術学校教授、日本図画手工協会会長、文部省図書編纂委員などを歴任した[5]。夫人は前田利昭子爵の長女静子[6]。英二の代の昭和前期に平田伯爵家の住居は東京市神田区駿河台にあった[5]。また東助の次男海軍中将で大正14年(1925年)6月30日に分家した[6]

英二の長男は克己(明治43年10月16日生)で、夫人は中御門経恭侯爵の娘宣子、後妻に元藤清明の次女正子[6]。克己は日本ヨット協会顧問だった。彼の代の平成前期に平田家の住居は東京都港区南青山にあった[6]。また英二の次男正治松下幸之助の娘幸子と結婚して幸之助の婿養子となり[6]、英二の三男義温三島通陽子爵の養子となっている[6]

克己と宣子の長男は義倫(昭和10年10月7日生)、その夫人は田中香苗次女早苗[6]。夫妻の長男は義晃(昭和38年6月15日生)である[7]

系図[編集]

実線は実子、点線(縦)は養子。系図は『平成新修旧華族家系大成 下巻』[6]に準拠。
平田亮伯
 
 
東助[† 1]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
英二省三卯江[† 2]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
克己正治[† 3]義温[† 4]恭助敬子[† 5]玲子[† 6]多恵子[† 7]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義倫邦彦悠紀子[† 8]聖子[† 9]方己
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義晃典史
系譜注

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d 小田部雄次 2006, p. 354.
  2. ^ 加藤房蔵 1927, p. 1.
  3. ^ 加藤房蔵 1927, p. 474-475.
  4. ^ a b c d e f g h i j 世界大百科事典 第2版 /日本大百科全書(ニッポニカ)朝日日本歴史人物事典『平田東助』 - コトバンク
  5. ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 112.
  6. ^ a b c d e f g h i j 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 416.
  7. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 417.

参考文献[編集]

  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036702 
  • 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366 
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342 
  • 加藤房蔵『伯爵平田東助伝』平田伯伝記編纂事務所、1927年(昭和2年)。