市川荒太郎 (3代目)

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さんだいめ いちかわ あらたろう
三代目 市川 荒太郎

1920年代(10代後半)の写真。
屋号 三河屋
生年月日 1912年
没年月日 1948年4月17日
本名 市川 武雄 (いちかわ たけお)
襲名歴 1. 市川たけを
2. 市川眼童
3. 市川玉太郎
4. 三代目市川荒太郎
出身地 大阪府大阪市
四代目市川荒五郎
市川お君
兄弟 二代目市川荒太郎 (兄)
さんだいめ いちかわ あらたろう
三代目 市川 荒太郎
本名 市川 武雄 (いちかわ たけお)
別名義 市川 たけを (いちかわ たけお)
市川 眼童 (いちかわ がんどう)
市川 玉太郎 (いちかわ たまたろう)
生年月日 1912年
没年月日 1948年4月17日
出生地 日本の旗 日本 大阪府大阪市
死没地 日本の旗 日本
職業 俳優歌舞伎役者、元子役
ジャンル 歌舞伎新派劇映画時代劇剣戟映画サイレント映画
活動期間 1917年 - 1948年
著名な家族 四代目市川荒五郎 (父)
二代目市川荒太郎 (兄)
三代目市川荒五郎 (祖父)
市川荒二郎 (叔父)
所属劇団 関西新派
劇団新鋭歌舞伎
事務所 帝国キネマ演芸
新興キネマ
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三代目 市川 荒太郎(いちかわ あらたろう、1912年 - 1948年4月17日)は、日本の俳優歌舞伎役者、元子役である[1][2][3][4][5]。子役時代の芸名は市川 たけを(いちかわ たけお)、旧芸名市川 眼童(いちかわ がんどう)であり、旧芸名市川 玉太郎(いちかわ たまたろう)の時代のうち1930年 - 1931年の間のみ、帝国キネマ演芸新興キネマに出演している[1][2][4][5]。本名市川 武雄(いちかわ たけお)[1][2]

剣戟映画のスター「市川玉太郎」は、もうひとり別人が江戸歌舞伎出身の市川幡谷の一派にいるが[4][5]、この「市川玉太郎」は、映画界においては「ポスト市川百々之助」として期待され、極めて短期間、サイレント映画に主演したことで知られる関西歌舞伎の役者である[1][4][5]

人物・来歴[編集]

1912年明治45年)、大阪府大阪市に生まれる[1][2][3]。父は先々代の初代荒太郎であった四代目市川荒五郎(1861年 – 1930年[6][2]、20歳年長の兄(養子)は、剣戟スター「市川荒太郎」として知られる二代目市川荒太郎(1892年 - 1925年[7])である[2]

数え年6歳になる1917年(大正6年)、父・四代目市川荒五郎、兄・二代目市川荒太郎とともに、大阪・松島八千代座で上演された『だんまり』(『鞍馬山のだんまり』)に出演、牛若丸を演じて、市川 たけをの名で初舞台を踏んだ[2]。1925年(大正14年)12月5日に兄・二代目市川荒太郎が、満33歳で早世する[7]。1928年(昭和3年)1月、市川 眼童を名乗り、1930年(昭和5年)5月17日、父・四代目市川荒五郎が亡くなる[6]と、三代目阪東壽三郎の預かり弟子になる[2]

1930年(昭和5年)、帝国キネマ演芸に入社、市川 玉太郎と改名して「ポスト市川百々之助」として期待され、入社第1作として製作された『吉良の仁吉』(監督押本七之助)に主演、同作は同年5月30日に公開された[1][2][4][5]。以降、望月礼子と多く組み、同社が1931年(昭和6年)8月28日に改組されて新興キネマになると、同社に継続的に入社するが、同年いっぱいまでで退社して、映画界を去った[1][4][5]

1933年(昭和8年)には改めて三代目阪東壽三郎の門下となって、舞台に復帰した[2]。1936年(昭和11年)5月1日から始まった京都・南座での『仮名手本忠臣蔵』に出演、赤根伝蔵を演じた記録が残っている[8]。1937年(昭和12年)4月には、玉太郎が関西歌舞伎から関西新派に転向、加入した旨の報道が同月27日付の『京都日出新聞』に掲載された[9]。同年7月1日から京都・南座で行われた関西新派の公演、中井泰孝作・演出の『人生曲線美』等に都築文男中田正造らとともに出演している[10]。その後、関西歌舞伎に戻り、同年、幹部俳優に昇進している[2]。1938年(昭和13年)3月12日から始まった京都・南座での瀬川春郎作による、三代目阪東壽三郎が大石内蔵助を演じた『元禄忠臣蔵』に出演、富森助右衛門、大工清吉、小林平八郎の三役を演じ分けた[11]

1940年(昭和15年)3月、大阪・中座で披露を行い、父の初代、兄の二代目の名跡を継承、「三代目 市川 荒太郎」を襲名する[2]。1942年(昭和17年)1月、松竹を離れ、「劇団新鋭歌舞伎独立記念京都第一回公演」として先斗町歌舞練場での『仮名手本忠臣蔵』では、片岡秀郎の由良之助に対し、判官・定九郎・平右衛門の三役を演じている[12]。以降、劇団新鋭歌舞伎の中心メンバーとして、第二次世界大戦の末期も、終戦直後も、京都・三友劇場に出演を続けた[13]。1946年(昭和21年)1月1日からの京都・京極東宝での公演から、劇団新鋭歌舞伎を新鋭劇団と改め、1947年(昭和22年)12月の京都・西陣劇場での公演まで、出演を続けた[14]

1948年(昭和23年)4月17日、死去した[3]。満36歳没。市川荒太郎の名跡は三代目の没以降、空白である。

フィルモグラフィ[編集]

クレジットは、すべて「出演」である[4][5]。公開日の右側には役名[4][5]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[15][16]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

帝国キネマ演芸[編集]

すべて製作・配給は「帝国キネマ演芸」、すべてサイレント映画、すべて「市川玉太郎」名義である[4][5]

新興キネマ[編集]

すべて製作・配給は「新興キネマ」、すべてサイレント映画、すべて「市川玉太郎」名義である[4][5]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g キネマ旬報社[1979], p.53.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 国立[2004], p.453, 560.
  3. ^ a b c 市川玉太郎jlogos.com, エア、2013年7月3日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k 市川玉太郎日本映画データベース、2013年7月3日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 市川玉太郎、日本映画情報システム、文化庁、2013年7月3日閲覧。
  6. ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus『市川荒五郎(4代)』 - コトバンク、2013年7月3日閲覧。
  7. ^ a b 市川荒太郎jlogos.com, エア、2013年7月3日閲覧。
  8. ^ 国立[2004], p.47-50.
  9. ^ 国立[2004], p.157.
  10. ^ 国立[2004], p.178-179.
  11. ^ 国立[2004], p.251-254.
  12. ^ 国立[2004], p.650.
  13. ^ 国立[2004], p.103, 109, 117, 123, 208, 229.
  14. ^ 国立[2004], p.240, 283, 316, 362 .
  15. ^ 所蔵映画フィルム検索システム東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年7月3日閲覧。
  16. ^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年7月3日閲覧。

参考文献[編集]

  • 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年10月23日
  • 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年11月、ISBN 4816915133
  • 『近代歌舞伎年表 京都篇 第10巻 昭和十一年-昭和十七年』、国立劇場調査養成部調査資料課近代歌舞伎年表編纂室、八木書店、2004年5月 ISBN 4840692327
  • 『近代歌舞伎年表 京都篇 別巻 昭和十八年-昭和二十二年補遺・索引』、国立劇場近代歌舞伎年表編纂室、八木書店、2005年4月 ISBN 4840692335

関連項目[編集]

外部リンク[編集]