岩木丸 (1942年)

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岩木丸
基本情報
船種 貨物船
クラス 船級名なし
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 北日本汽船
大阪商船
運用者 北日本汽船
大阪商船
 大日本帝国海軍
建造所 播磨造船所相生工場
母港 東京港/東京都
大阪港/大阪府
姉妹船 あかがね丸(日本海運)
國玉丸玉井商船
乾進丸乾汽船
他5隻
信号符字 JGKP
IMO番号 49472(※船舶番号)
建造期間 472日
就航期間 704日
経歴
起工 1941年3月15日
進水 1942年4月28日
竣工 1942年6月29日
最後 1944年6月1日被雷沈没
要目 ([注釈 1])
総トン数 3,125トン[注釈 2]
純トン数 1,787トン[1]
載貨重量 4,828トン
全長 96,0m
14.0m
深さ 7.5m
高さ 21.33m(水面からマスト最上端まで)
7.92m(水面から船橋最上端まで)[注釈 3]
喫水 遠洋6.39m/近海6.45m[3]
ボイラー 播磨筒型石炭専燃円缶 2基
主機関 三連成レシプロ機関 1基
推進器 1軸
出力 2,159IHP
最大速力 13.393ノット
航海速力 11ノット[3][4]
航続距離 11ノットで7,300海里[注釈 4]
旅客定員 一等:3名[3]
乗組員 48名[3]
その他 兵装[4]:8cm砲、爆雷4個
端艇3隻[3]
1942年12月6日徴用[5]
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岩木丸(いわきまる)[注釈 5]は、かつて北日本汽船/大阪商船[注釈 6]が運行していた貨物船太平洋戦争中、海軍省により徴傭され輸送任務中に撃沈された。

船名は、北日本汽船/大阪商船が取得した船としては唯一のもの。

船歴[編集]

岩木丸は北日本汽船から播磨造船所に発注され、1941年昭和16年)3月15日、播磨造船所相生工場で建造番号303番船として起工。1942年(昭和17年)4月28日、進水。6月29日、同所で竣工。

12月6日[5]、岩木丸は横須賀在泊中に日本海軍により徴傭され、横須賀鎮守府所管の海軍一般徴用船(雑用船)となる。8日、東京へ回航。11日大井、同日鳥羽、14日、16日大阪、19日門司、23日大連、31日所安群島にそれぞれ寄港。

1943年(昭和18年)1月5日横浜、11日室蘭、19日函館、22日東京、26日横須賀にそれぞれ寄港。

2月2日父島、6日硫黄島、28日父島にそれぞれ寄港。

3月4日横須賀、11日函館、12日小樽、16日函館、20日東京、27日小樽、31日函館にそれぞれ寄港。

4月3日東京、13日小樽、18日油谷湾、20日大阪、22日広畑、26日八幡、29日長崎にそれぞれ寄港。

5月2日佐世保、7日群山、10日青島、19日徳山、23日大阪、28日門司、29日釜山にそれぞれ寄港。

6月6日大湊、11日函館、16日釧路、21日択捉島天寧、25日松輪島、27日幌筵島武蔵湾、30日占守島長崎湾にそれぞれ寄港。

7月1日占守島片岡湾、5日武蔵湾、7日幌筵島擢鉢湾、8日武蔵湾、24日小樽、26日函館、31日青森にそれぞれ寄港。

8月4日小樽、9日片岡湾、12日武蔵湾、20日擢鉢湾、31日幌筵島乙前湾にそれぞれ寄港。

9月5日函館、9日青森、同日大湊、16日小樽にそれぞれ寄港。20日から21日まで神風の護衛を受ける。21日武蔵湾、同日擢鉢湾、30日武蔵湾にそれぞれ寄港。

10月11日片岡湾、13日擢鉢湾、17日武蔵湾、18日片岡湾にそれぞれ寄港。20日、石垣の護衛を受けカニ漁母船笠戸丸らとともに幌筵発。24日小樽、26日函館、31日青森にそれぞれ寄港。

11月4日小樽、10日片岡湾、12日武蔵湾にそれぞれ寄港。武蔵湾在泊中の16日、北日本汽船は大阪商船と合併。23日擢鉢湾に寄港。

12月15日片岡湾、23日武蔵湾にそれぞれ寄港。

1944年(昭和19年)1月19日釧路、25日室蘭、31日六連にそれぞれ寄港。

2月2日大阪、4日相生にそれぞれ寄港。7日から3月30日まで播磨造船所で入渠修理を実施。

4月1日徳山、7日門司、9日美保関、10日舞鶴、13日大湊、14日室蘭、24日大湊にそれぞれ寄港。

5月3日片岡湾に寄港。5日、神風の護衛を受け大湊へ向け幌筵発。10日大湊、同日函館、13日大湊、19日小樽にそれぞれ寄港。20日、ネ船団に加入し松輪島へ向け小樽発。24日、松輪島着。31日、復航ネ船団に参加して松輪島を出港したが[6][7]、陸軍輸送船まどらす丸(南洋海運、3,802トン)[8]、特設運送船興東丸(三光汽船、1,053トン)[9]がアメリカ潜水艦バーブの雷撃により、輸送船北洋丸(栗林商船、1,590 トン)[6][7]と唯一の護衛艦だった海防艦石垣[10][11]がアメリカ潜水艦ヘリングの雷撃によりそれぞれ撃沈され、船団で唯一生き残った岩木丸は松輪島の大和湾に引き返した[注釈 7][6][7]

6月1日、大和湾に入港した岩木丸は停泊中、岩木丸を追って湾内に侵入したヘリングの攻撃を受けて魚雷2本が命中し、沈没した。沈没の際、船員30名が戦死した。

なお、その後へリングは同じく停泊していた陸軍船日振丸(山下汽船、4,366 トン)を撃沈したが[7][14]、触礁したため浮上して後進を開始したところ[7]、同じく湾内に停泊していた陸軍船紅海丸(大阪商船、1,273 トン)と松輪島砲台による銃砲撃を受け[7][14]、松輪島砲台から発射された砲弾が命中し沈没した[7]

7月31日、解傭。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 脚注なき限り『播磨50年史』p. 422およびpp. 458-459による。
  2. ^ 『昭和十七年版 日本汽船名簿』では3,124トン。
  3. ^ 米海軍識別表[2]より(フィート表記)。
  4. ^ 米海軍識別表[2]より。
  5. ^ 船名読みは『昭和十七年版 日本汽船名簿』による。
  6. ^ 合併を繰り返し、2015年末時点では商船三井
  7. ^ 岩木丸は、『戦時輸送船団史』[12]および『敵潜水艦攻撃』[13]では、日振丸とともに松輪島に入港したものとしている。

出典[編集]

  1. ^ 海軍一般徴用船(雑用船)
  2. ^ a b Akagane_Maru_Class
  3. ^ a b c d e 『昭和十七年版 日本汽船名簿』による。
  4. ^ a b #船舶名簿p.13
  5. ^ a b 岩木丸
  6. ^ a b c 『大東亜戦争徴傭船舶行動概見表 甲 第五回』による。
  7. ^ a b c d e f g #野間p.277
  8. ^ #SS-220, USS BARB, Part 1p.126
  9. ^ #SS-220, USS BARB, Part 1p.157,185
  10. ^ #SS-233, USS HERRINGp.145
  11. ^ #木俣敵潜1989p.111
  12. ^ #駒宮pp.180-181
  13. ^ #木俣敵潜1989p.110-111
  14. ^ a b #千根1906p.17

参考文献[編集]

  • 海軍省
    • 徴傭船舶行動整理表。
    • 大東亜戦争徴傭船舶行動概見表 甲 第四回。
    • 大東亜戦争徴傭船舶行動概見表 甲 第五回。
    • 千島方面特別根拠地隊戦時日誌。
    • 千島方面根拠地隊戦時日誌。
    • 大湊警備府戦時日誌。
  • 逓信省運輸通信省
    • 『昭和十七年版 日本汽船名簿』。
    • 海運総局 『昭和十八年度 日本船名録』。
  • 『石川島播磨重工業社史 沿革・資料編』、石川島播磨重工業、1992年。
  • 『大阪商船株式會社八十年史』、大阪商船三井船舶、1966年。
  • 木俣滋郎『敵潜水艦攻撃』朝日ソノラマ、1989年。ISBN 4-257-17218-5 
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9 
  • 野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』野間恒(私家版)、2004年。 
  • 『戦没した船と海員の資料館』[1]全日本海員組合
  • 『喪失船舶一覧表』、船舶運営会
  • 『播磨50年史』、播磨造船所、1960年。