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尹ヒュー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
尹鑴
各種表記
ハングル 윤휴
漢字 尹鑴
発音 ユン・ヒュー
日本語読み: いん けい
ローマ字 Yun Hyu
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尹 鑴(ユン・ヒュー、1617年10月14日 - 1680年5月20日)は李氏朝鮮儒学者、政治家、教育者、作家。本貫南原尹氏[1]礼訟における士林派南人側の主な論客である[2]仁祖の代から粛宗の代まで學者、官僚であった。字は「斗魁」、「希仲」、号は「白湖」、「夏軒」[2]。1680年、許堅の獄朝鮮語版に連座して刑死した。

人物

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慶尚北道慶州郡(現在の慶州市)生まれ。顕宗薨去直前の1674年7月1日に、中華帝国のもっとも忠実な模範属国として、中華天子への忠実な諸侯の礼を尽くし、呉三桂鄭経らの起こした三藩の乱と呼応して、春秋大義中国語版に依った明王朝支援のために至急出兵・参軍し、南渡の明王朝に参じ、朝鮮王の忠誠の義を示し、もって先王朝(明王朝)の復讐雪辱を果たすべきであるとの上疏をおこない、さらに粛宗即位直後の1674年12月1日にも再度同様の上疏をしている[3]

著作

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  • 『白湖全書』
  • 『白湖讀書記』
  • 『周禮設』
  • 『程書分類』
  • 『宋子大全』
  • 『中庸大學後設』
  • 『中庸設』
  • 『白湖文集』

脚注

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  1. ^ 윤휴(尹鑴)”. 韓国民族文化大百科事典. 2022年10月25日閲覧。
  2. ^ a b 윤휴[リンク切れ]
  3. ^ 太田誠『政治家宋時烈の研究』東北大学、2014年3月26日、14頁。 

参考文献

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  • 「アジア人物史 第8巻」集英社 2022年

関連項目

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外部リンク

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