コンテンツにスキップ

小泉六一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小泉 六一
生誕 1875年3月6日
日本の旗 日本 広島県
死没 (1945-03-01) 1945年3月1日(69歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1896–1930年
最終階級 陸軍中将
テンプレートを表示

小泉 六一(こいずみ ろくいち、1875年明治8年)3月6日[1][2] - 1945年昭和20年)3月1日[1][2])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

[編集]

広島県出身[1][2][3]広島藩下士[要出典]士族秋山恂一の次男として生れ、小泉弥一の養子となる[1]陸軍幼年学校を経て、1896年(明治29年)5月、陸軍士官学校(7期)を卒業[2]、翌年1月歩兵少尉に任官し、歩兵第21連隊付となる[1][4]。1903年(明治36年)11月、陸軍大学校(17期)を卒業[1][2][3]日露戦争時には歩兵第11連隊中隊長第4師団参謀第2軍参謀を務めた[1]

第1師団参謀、陸軍省軍務局歩兵課員、歩兵第1連隊付、欧州出張を経て、第一次世界大戦において1915年(大正4年)8月から青島守備軍副官となった[1][2][3]。以後、歩兵第1連隊長、軍務局歩兵課長などを歴任し、1920年(大正9年)8月、陸軍少将に進級[1][3]陸軍兵器本廠付(作戦資材整備会議幹事長)を経て、憲兵司令官となるが、1923年(大正12年)9月の関東大震災直後に起こった甘粕事件により、9月20日に停職、翌年1月に待命となった[1][2][3]

しかし、1924年(大正13年)2月には歩兵第13旅団長として復帰し、1925年(大正14年)5月、陸軍中将となった[1][2][3]支那駐屯軍司令官、第11師団長、第3師団長などを歴任し、1930年(昭和5年)8月、予備役に編入された[1][2][3]

1936年(昭和11年)から1944年(昭和19年)6月まで、帝国在郷軍人会副会長を務めた[1]

栄典

[編集]
位階
勲章等

親族

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本陸海軍総合事典』第2版、63頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『日本陸軍将官辞典』294頁。
  3. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』126頁。
  4. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』124、126頁。
  5. ^ 『官報』第2434号「叙任及辞令」1920年9月11日。
  6. ^ 『官報』第822号「叙任及辞令」1915年5月1日。
  7. ^ 『官報』第2197号「叙任及辞令」1919年11月29日。
  8. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
  9. ^ 『官報』第2971号「叙任及辞令」1922年6月28日。
  10. ^ 『官報』第478号「叙任及辞令」1928年7月31日。

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。