寇儁

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寇 儁(こう しゅん、484年 - 563年)は、北魏から北周にかけての官僚政治家は祖儁。本貫上谷郡昌平県

経歴[編集]

北魏の安遠将軍・郢州刺史寇臻寇讃の子)の子として生まれた。幼くして見識と度量があり、学問を好んで物覚えが良かった。兄の寇祖訓と寇祖礼とともに志と行いの正しいことで知られた。あるとき家人が物を売って5匹を余分に得たことがあった。寇儁がこのことを知ると、「悪木の陰では休んではいけない。盗泉の水は飲んではいけない。良くない行いで得た財は、わたしの取るところではない」といって買主を訪れて余分に得た絹を返還した。

北魏の孝文帝により郎に選抜され、奉朝請に任じられた。515年延昌4年)、大乗の乱が起こると、寇儁は参軍として鎮圧にあたった。功績により員外散騎侍郎とされ、尚書左民郎中に転じた。母が死去して喪に服したため、任を受けなかった。522年正光3年)、軽車将軍の号を受け、揚烈将軍・司空府功曹参軍となり、主簿に転じた。霊太后永寧寺を造営したとき、寇儁はその建造をつかさどった。寺が落成すると、その壮麗ぶりを霊太后に喜ばれ、寇儁は左軍将軍の号を受けた。孝昌年間、塩池都将となり、龍驤将軍の号を加えられた。

528年永安元年)、華州の民の史底が司徒楊椿を相手に田地の所有を巡って争訟した。楊椿の権勢が高かったため、長史以下の官は楊椿の弁論を正しいとみなして、田地を楊椿に与えようとした。しかし寇儁は楊椿が史底の田地を横領したものと認定して、田地を史底に返還させた。孝荘帝が後でこのことを知ると、寇儁の公正剛直ぶりを賞賛して、司馬に任じ、帛100匹を賜った。楊椿を支持した者たちは、みな譴責を受けた。

529年(永安2年)、寇儁は左将軍梁州刺史として出向した。梁州は民心が荒れており、反乱が多発していた。寇儁は郡県に庠序を立てさせ、農耕や養蚕を奨励して、数年のうちに風俗を改めさせた。南朝梁が将軍の曹琰之を派遣して魏興に駐屯させ、城壁を工事させた。曹琰之はたびたび国境を侵犯して騒がせていた。寇儁は長史の杜休道を派遣して魏興の城を攻め落とさせ、曹琰之を捕らえた。寇儁は任期を満了すると、梁州の官吏や民衆に見送られて、徒歩で洛陽に帰った。

536年天平3年)、東魏により洛州刺史に任じられた。539年大統5年)、寇儁は家族や親族400人を率いて入関し、西魏により秘書監に任じられた。当時の西魏では古典籍の多くが散逸していたため、寇儁は令史を置いて、古典籍を蒐集させた。鎮東将軍の号を加えられ、西安県男に封じられた。551年(大統17年)、車騎大将軍・儀同三司の位を受け、散騎常侍の位を加えられた。寇儁は老齢を理由に引退を願い出たが、宇文泰が許可しなかった。寇儁は病が重いと称して、入朝しなくなった。556年恭帝3年)、若口引氏の姓を賜った。

557年、北周が建国されると、子爵に進んだ。559年武成元年)、驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。寇儁は老齢となっても識見は衰えず、子孫に儒学を教授していた。明帝は儒学を重んじたので、寇儁を特に賞賛して、数々の恩錫を与えた。寇儁はやむをえず入朝し、明帝の謁見を受けて洛陽の昔話を語った。563年保定3年)、死去した。享年は80。本官に加えて冀定瀛三州諸軍事・冀州刺史の位を追贈された。は元といった。

子女[編集]

  • 寇奉(儀同三司・大将軍順陽郡太守洵州刺史・昌国県公)
  • 寇顒(儀同大将軍、掌朝・布憲・典祀下大夫、小納言、濩沢郡公)

伝記資料[編集]