宇喜多能家

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宇喜多能家
Ukita yoshiie.jpg
宇喜多能家肖像(岡山県立博物館蔵、重要文化財
時代 戦国時代
生誕 不明
死没

享禄4年(1531年[1]

天文3年6月30日1534年8月9日
別名 通称:平左衛門尉
戒名 玄仲常玖(玄仲常珍?)
官位 和泉
主君 浦上則宗村宗
氏族 宇喜多氏
父母 父:宇喜多久家
兄弟 能家宗因浮田国定
興家四郎戸川秀安?、娘・明石正風

宇喜多 能家(うきた よしいえ)は、戦国時代武将浦上氏の家臣。宇喜多久家の子。備前国豊原荘砥石城主。

生涯[編集]

備前国の武将・宇喜多久家の子として誕生。

赤松氏の下で守護代を務めていた浦上則宗村宗に仕え、備前豊原荘の砥石城を領していた。智勇に優れた人物で、則宗らからの信任が厚かった。

15世紀末当時、備前国は赤松氏の守護代として浦上氏が支配しており、この頃から宇喜多氏はその被官として名を伺われるようになった。しかし応仁元年(1467年)からの応仁の乱を契機に戦国の世が備前にも及ぶこととなると、文明15~16年(1483 - 1484年)には、福岡合戦と呼ばれる騒乱が勃発した。これは室町初期には備前守護に任じられたこともある有力国人の松田氏らが、赤松・浦上氏の備前支配を排除しようとしたことが遠因になったとされる。こうして浦上氏と松田氏は備前国内で勢力を争うようになった。なお明応5年(1496年)頃に、父・久家が宇喜多の代表として部下に宛てた書状などが存在しているが、明応8年(1499年)には既に宇喜多の代表は能家に代わっているため、家督相続はこの頃のことと推測される。

さらに浦上家中では家督をめぐって内訌が生じ、明応8年(1499年)には浦上則宗と浦上村国とが合戦に及んだ。則宗は戦いに敗れ白旗城に篭城したが、村国の包囲で落城寸前になり、一族のものまでが則宗を見捨てて落ちのびようとするにいたった。この時、能家が義を説き、励ましたことで城兵は奮戦し、やがて村国は兵を引き揚げた。文亀2年(1502年)冬、能家は浦上軍の総大将として松田勢との戦に赴き、吉井川を越えた宍甘村付近で自ら敵将・有松右京進を討ち取るなどの奮戦をした。 文亀3年(1503年)、能家は浦上勢と共に吉井川を渡り、松田勢と雌雄を決すべく上道郡に進入した。松田元勝も自ら兵を率い御野郡笠井山に陣を定め、旭川の牧石の河原で両軍は激突した。松田勢は山から軍を駆けおろして浦上勢を包囲する形となったが、これを見た能家は宇喜多全軍を率いて旭川をわたり救援に向かった。能家は兜に矢をうけ槍で突かれながらも奮戦し、乱戦を制して松田勢を敗走させた。

則宗の跡を継いだ村宗は、赤松氏からの自立を図っていたため、赤松義村と不和となり、永正15年(1518年)には居城の三石城に退去した。これを権力拡大の好機ととらえた義村は、自ら兵を率い三石城へ侵攻した。浦上氏にとって主筋にあたる義村の攻撃は、城中を動揺させ多くの逃亡者を出したが、将兵の信頼を得ていた能家の活躍により赤松勢の猛攻に耐え、やがて船坂峠の戦いでこれを敗走させた。

永正17年(1520年)、赤松義村は再度兵をおこし、三石城には浦上村国を、美作国東部を攻略すべく小寺則職を向かわせた。東美作で赤松勢は浦上勢を圧倒したが、能家は踏みとどまった少数の兵を率いて朝駆けを行うなど、離散した兵を糾合し赤松勢と対峙した。さらに村宗は小寺氏の家臣を寝返らせることに成功し、これをもって東美作の赤松勢を敗走させた。これらの度重なる敗北により義村の権威は失墜し、逆に村宗の勢力は拡大した。遂には播磨国に侵入して西播磨一帯を制圧し、義村を隠居させ幽閉し、大永元年(1521年)に殺害した。ここに浦上氏の下剋上となったのである。

大永3年(1523年)、義村の子・赤松政村(晴政)を擁立した浦上村国と小寺則職を討つため、浦上村宗は播磨に出兵した。この戦いで、先陣を務めた能家の次男・四郎が村国の策略にあって討死すると、それを知った能家は自ら死地を求めて敵陣に突撃奮戦し、結果的に浦上軍に勝利をもたらした。この能家の奮戦を伝え聞いた室町幕府管領細川高国は、名馬一頭と名のある釜を贈ったと伝えている。大永4年(1524年)に家督を子の興家に譲って出家し、享禄4年(1531年)に高国と主君・村宗が細川晴元三好元長の連合軍に敗れて両者とも死去する(大物崩れ)と、それを機に砥石城で隠居したとされる(1524年に家督を譲ったと同時に隠居したとする文献も)。

享禄4年[1]、または、天文3年(1534年)、以前から仲の悪かった同じく浦上氏の家臣であり、尾根向かいの長沼荘高取城主・島村盛実の奇襲を受け砥石城にて自害した(この後、砥石城は浮田国定が領有したことから浮田氏の内訌とも、上意討ちとも諸説あり)。法名は常玖、または常珍。家督を継いだ興家は暗愚な人物だった(またはその振りをしていたとも)といわれ、砥石城落城の際に幼少(3歳[1]、または6歳とも)の直家を連れて落ち延びた。宇喜多氏の再興が図られるのは、この孫の直家の代になってからである。

なお、大永4年(1524年)に京都南禅寺の僧・九峰宗成に描かせた能家の肖像画が岡山県立博物館に所蔵されており、国の重要文化財に指定されている。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 湯浅常山の著書『常山紀談

参考文献[編集]

  • 立石定夫『戦国宇喜多一族』新人物往来社、1988年
  • 『岡山県史』第5巻(中世2)、1991年
  • 柴田一「宇喜多能家の生涯」『宇喜多家史談会会報』第4号、2002年
  • 渡邊大門『戦国期浦上氏・宇喜多氏と地域権力』岩田書院、2011年
  • 渡邊大門『宇喜多直家・秀家』ミネルヴァ書房、2011年
  • 田中修実「宇喜多直家の幼少期とその時代背景」『吉備地方文化研究』第21号、2011年