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太上皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
太上皇帝から転送)
ベトナム陳仁宗

太上皇(たいじょうこう)は、東アジアにおける退位した皇帝、または皇帝の父の称号。この項目では退位した皇帝が称したその他の称号についても解説する。

中国

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中国において最初に「太上皇」の称号が用いられたのは、始皇帝が父である荘襄王に贈ったものである[1]。始皇帝26年(紀元前221年)、始皇帝は皇帝号を創出したうえで諡号制度を廃止し、荘襄王を「太上皇」と追尊した[1]

の初代皇帝となった劉邦は、紀元前201年に父劉太公に「太上皇」の尊号を贈った[2]。中華世界において皇帝のほかは皆臣下であるのが原則であるが、皇帝の存命の父が臣下の礼を取らねばならず、また皇帝が父に対して礼を尽くせないという問題もあった。太上皇の尊号はこれを解決する手段であったと見られる[3]。しかしその後王朝の創始者の父が存命である例はなく、太上皇の尊号はしばらく用いられなかった[3]

西晋永寧元年(301年)、司馬倫恵帝に迫って譲位させ、皇帝の座に就いた。この際に司馬倫は恵帝に「太上皇」の称号を贈った。これが生存している前皇帝が「太上皇」となった初例である[3]。司馬倫は間もなく討伐されて恵帝が復位したため、この太上皇の称号は4ヶ月しか用いられなかった[3]

南北朝時代後涼の創始者呂光は天王の地位を子の呂紹に譲り、「太上皇帝」を自称した[4]。天王は皇帝を称せない事情があるものが称する地位であるが、呂光はその上位者である立場から「太上皇帝」を称したものと見られる[4]。その後、北魏献文帝は、471年に幼少の孝文帝に譲位した後、群臣より「太上皇帝」の尊号が贈られた[4]。この際、上表文には「太上皇では天下を統べることはできない」と記されており、天下を統治するためには「太上皇」ではなく「太上皇帝」の尊号が適切であると群臣が考えたことによるものである[4][5]北斉武成帝は後継者問題の解決のため、長男高緯(後主)に皇帝の地位を譲ることとした。この際、家臣の祖珽は「皇帝よりも上の位」に登ることをすすめ、献文帝の例を出して「太上皇帝」に就くべきであるとした[4]。その後高緯は高恒(幼主)に譲位して「太上皇帝」となり、更に高恒も高湝に譲位したため、高恒は「守国天王」、高緯は「無上皇」の尊号を贈られている[6]。また北周宣帝は、譲位後に「天元皇帝」を称した。

の末期には李淵に擁立された恭帝侑が、煬帝に対して「太上皇」の尊号を贈っている[7]においては、初代皇帝の李淵は李世民(太宗)に譲位した後に「太上皇」を自称している[8][9]。また睿宗は、子の李隆基(玄宗)に譲位した後「太上皇帝」を称している[9]。この際、睿宗は国家の重要事については自分が裁断し、その他を皇帝である玄宗に任せるとしている[9]。また「太上皇帝」睿宗は「詔」ではなく「誥」の字を自らの命令書として用いた[10]。その後玄宗は睿宗の宮廷における実力者太平公主を排除するクーデターを起こし、睿宗は全権を玄宗に譲った[11]

安史の乱が勃発し、唐が混乱状態となると、皇太子であった李亨(粛宗)は玄宗の許可なしに皇帝に即位し、父玄宗に対して「上皇天帝」の称号を贈った[12]。これを受けて玄宗は「上皇」としてこれを受け入れ、これ以降は「太上皇」を称するとした[12]。また順宗も譲位した後に「太上皇」を称し、「応乾聖寿太上皇」の尊号を贈られた[12]

この後の皇帝では北宋徽宗南宋光宗は譲位後に「太上皇」を称した。

一方で南宋高宗孝宗乾隆帝は「太上皇帝」を称した。英宗土木の変オイラト部に捕らえられたため、帝位についた景泰帝から「太上皇帝」の尊号を贈られたが[13]奪門の変で再び復位している。

中国において太上皇・太上皇帝の制度はあくまで臨時の制度であり、譲位の際にはその権限を明確にしなければならなかった[14]後漢蔡邕は太上皇は「天子」ではないとしており、帝でないとしている[15]。一方で唐の司馬貞は「太上皇」を帝より徳が大きいと解釈している[16]。唐代までの例を検討した春名宏昭は「太上皇」は実権がなく、「太上皇帝」は権力を掌握していたものと見ているが[17]筧敏生は称号自体が権力を生み出すものではなく、明確に分離できるものではないとしている[18]

表記

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詔書によって「太上皇帝」とされた明の英宗に対し、陳建中国語版の『皇明歴朝資治通紀中国語版』では「太上皇」としており、その執筆に利用されたと見られる陸容中国語版の『菽園雜記』では「太上皇帝」と「太上皇」の記述が混用されている[19]。また「上皇」という略表記もある[19]

日本

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位を退いた日本の天皇には『太上天皇』の尊号が奉られたが、これは中国における太上皇および太上皇帝に該当する[20]。この尊号を帯びた最初の天皇は持統天皇、最後の天皇は光格天皇である。律令下における太上天皇は中国の太上皇・太上皇帝とは異なり、法制化された恒常的な制度であった[14]

2019年に天皇明仁退位するにあたり、退位後の称号として「太上天皇」ではなく「上皇」が選ばれた。日本政府は正式英文表記を「His Majesty the Emperor Emeritus」にすることに決定した。「Emeritus(名誉退職した、前官礼遇)」という表記は名誉教皇ベネディクトゥス16世以外では退位した君主に使われた前例はないが、敬意を示すためにこの表記が用いられることとなった[21]

朝鮮

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朝鮮半島における諸王国では、退位した国王に上王・太上王の尊号を贈る例があった。

1897年10月12日朝鮮第26代国王高宗は国号を大韓帝国とし、王号をあらためて皇帝号を称した。しかし高宗は日本や李完用など親日派勢力に抵抗を続けていた。1907年ハーグ密使事件が発覚したことによって高宗の退位を求める動きが加速した。7月20日、皇太子純宗)への譲位に追い込まれ、7月21日付で「太皇帝」の尊号が贈られた。当初は内閣客員は「太上皇帝」の尊号とする予定であったが、高宗はこれに抵抗し、「上」の字を取って「太皇帝」を採用させた[22]

韓国併合後、大韓帝国皇族は王公族とされ、太皇帝の称号は「太王」とされ、高宗は「徳寿宮李太王」の称号で呼ばれることとなった[23]

ベトナム

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ベトナムにおける太上皇の称号は中国や朝鮮と異なり、国内に限り君主号としての意味を持っていた。

歴代王朝は代々中国皇帝に朝貢をしていたが、一方で皇帝がその諱(本名)を他国に知られてその臣下扱いされることを潔しとしなかった。そこで皇帝が早い段階で後継者に帝位を譲って太上皇となり、王室内の最高意思決定と対外(中国)交渉を行い、皇帝は内政一般を扱うという慣習が成立した。

陳朝の時には、建国時に皇帝(太宗)即位から程なく父親が太上皇(陳承、後に太祖)に立てられている(『大越内裏史記』建中元年12月条・同2年10月条)。このため、中国への朝貢は太上皇が「国王」を名乗って行っており、中国正史とベトナムの正史が伝えるベトナム君主の在位には1代ずつのずれが生じているといわれている。

脚注

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  1. ^ a b 春名宏昭 1990, p. 4.
  2. ^ 春名宏昭 1990, p. 4 - 5.
  3. ^ a b c d 春名宏昭 1990, p. 5.
  4. ^ a b c d e 春名宏昭 1990, p. 6.
  5. ^ 筧敏生 1994, p. 17.
  6. ^ 春名宏昭 1990, p. 7.
  7. ^ 春名宏昭 1990, p. 8.
  8. ^ 筧敏生 1994, p. 19.
  9. ^ a b c 春名宏昭 1990, p. 9.
  10. ^ 春名宏昭 1990, p. 9 - 10.
  11. ^ 春名宏昭 1990, p. 10 - 11.
  12. ^ a b c 筧敏生 1994, p. 16.
  13. ^ 瀧野邦雄明・景泰帝の諡號について(1)」『経済理論』第367巻、和歌山大学経済学会、2012年、158-159頁、doi:10.19002/an00071425.367.147ISSN 04516222NAID 110009456124 
  14. ^ a b 春名宏昭 1990, p. 28.
  15. ^ 筧敏生 1994, p. 17-18.
  16. ^ 筧敏生 1994, p. 18.
  17. ^ 春名宏昭 1990, p. 12-13.
  18. ^ 筧敏生 1994, p. 18 - 20.
  19. ^ a b 瀧野邦雄明・景泰帝の諡號について(3)」『経済理論』第373巻、和歌山大学経済学会、2013年、95、97、doi:10.19002/an00071425.373.95ISSN 04516222NAID 110009613413 
  20. ^ 筧敏生 1996, p. 1.
  21. ^ 退位後の両陛下の英語称号、「名誉ある」を付与”. 読売新聞オンライン. 読売新聞 (2019年2月25日). 2025年12月6日閲覧。
  22. ^ 月脚達彦「保護国」期における朝鮮ナショナリズムの展開 伊藤博文の皇室利用策との関連で」『朝鮮文化研究』第7巻、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部朝鮮文化研究室、2000年、50頁、doi:10.15083/0002003087NAID 120007186751 
  23. ^ 新城道彦王公族としての認定基準と構成人員の増加 : 冊立詔書・王公家軌範・「王族譜」「公族譜」を手掛かりとして」『韓国言語文化研究』第16巻、九州大学韓国言語文化研究会、2008年、23頁、ISSN 13485997NAID 40016357770 

参考文献

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関連項目

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