大通公園

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大通公園(おおどおりこうえん)は、札幌市の中心部を東西に横切る公園中央区大通西一丁目から大通西十二丁目まで長さ約1.5kmにわたって連なる。札幌の都市計画の基線となる大通りとして設けられ、徐々に公園として整備された。現在に至るまで札幌の中心を占めるもっとも重要な公園・広場空間である。1980年6月6日に都市公園告示(特殊公園)、面積78,901m²(約7.9ha)。

大通公園(冬)

公園の位置

札幌市中心部は碁盤目状の区画であり、その住所は「北十七条東五丁目」「南九条西十五丁目」のように南北東西に条丁目をつけて表される。東西を分ける基準となっているのは創成川である。これに対し南北の境界にあたる道路が大通であり、またそれに面した、南北の「0条」にあたる地域のことも大通という(送り仮名の「り」をつけないのが正しい表記)。 都市計画道路としての「3.1.2大通」(幅員105.45m)に公園部分も含まれる。車両通行帯は公園を挟んで北大通と南大通に分かれており、それぞれ東、西への一方通行となっている。大通公園は、幅65mの巨大な中央分離帯であるともいえる。

用途地域は商業地域(800/80)。第一種風致地区(大通風致地区)。都市景観形成地区(大通地区)。

大通と公園の歴史

大通の成立

1869年(明治2年)、北海道の中心となる都市を建設するために札幌に来た開拓判官島義勇は、札幌市を南北で二つに分け、北を官庁と官吏の区域、南を人民の区域とする計画を立案した。官民は広い道路で隔てられたが、その位置は現在の大通公園とは異なる。島の更迭後に建設の指揮をとった岩村通俊が作り直した1871年(明治4年)の計画で、官地と民地を分ける「火防線」が、現在の大通公園の位置に設定された。大火の延焼を防ぐための空き地を確保するもので、実際明治時代にこの線がたびたび火災の広がりを食い止めた。幅は105メートル(58間)で、当時の日本の都市の常識を超えていた。

札幌の街路には、1872年(明治5年)9月18日に北海道の国郡名が与えられ、今の大通りには後志通の名が与えられた。しかしこの呼び名は普及せず、1881年(明治14年)6月、「札幌市街名称改正」で条丁目制が導入され、大通という名称になった。

明治から第二次世界大戦まで

大通西一丁目には豊平館が、大通西二丁目には電話局がせり出しており、他の部分より幅が狭かった。大通西三丁目、大通西四丁目付近は当時から街路の中心で、市の中心の広場として多目的に利用された。1878年(明治11年)に大通西二丁目と大通西三丁目に第一回農業仮博覧会の会場が設けられ、これ以後各種催しの会場になった。

西に行くと町の賑わいはなくなり、大通西十丁目以西の部分は屯田兵の練兵場であった。屯田兵が廃止になると、近隣の学校の運動会が開かれたりしたが、明治の末に大通に組み入れられた。大通の利用度は低く、ゴミ捨て場や雪捨て場になっていた。市の中心部に広い土地を放置していることを問題視する意見は多く、宅地などへの転用を求める運動が何度かおきたが、結局実現に至らなかった。

1876年(明治9年)に、大通西三丁目、大通西四丁目に二千坪 (約6600m2)の花壇が作られた。さらに1909年(明治42年)に造園設計家の長岡安平を招いて逍遙地としての整備を行ったのが、大通公園のはじまりとされる。

戦後の公園整備

第二次世界大戦中に大通はイモ畑にされた。戦後、食糧事情が好転すると、畑地はなくなったが、かわりに再びゴミ捨て場、雪捨て場になった。大通の一部を進駐軍が接収して野球場とテニスコートを作った。これにならって民間も運動場を作った。返還後は他にも大通り西側にさまざまな運動場が作られた。

進駐軍から大通が返還された1950年(昭和25年)から、公園としての整備が再開された。その年以来、造園関係の業者に一定のスペースを割り当てる方式で多数の花壇を作っている。花壇の前には担当の会社名を記したプレートがあり、季節ごとにさまざまな趣向で花壇造りの技を競う。

なお、1988年(昭和63年)にはさっぽろ・ふるさと文化百選に選定された(No.80)。

各部分の概要

大通西一丁目から大通西十三丁目まで、南北約65メートル、東西約110メートルの長方形が東西に連なる。大通西一丁目が一番東で、数字が増すごとに西方になる。この区画は幅4メートルの歩道で囲まれ、さらに車道で囲まれる。行き来には横断歩道を使わねばならない。規則的配置の例外が二つある。大通西一丁目は区画の面積が他よりやや小さい、大通西八丁目と大通西九丁目は現在連結している。

以下の解説中、名称を( )で囲んだものは、撤去や移転により現在公園に存在しないものである。変遷が多い公園の歴史をすべて網羅したものではなく、現在ある施設等をすべて収録したものでもないことを付記する。



13 12 11

10 9 8 7 6 5 4

3 2 1

大通西一丁目

  • 地下鉄大通駅東豊線
  • さっぽろテレビ塔。展望台から公園と札幌市街を一望することができる。逆に公園側からも良く見え、大通公園の景観の焦点となる。1957年(昭和32年)建設。
  • 豊平館) 1880年(明治13年)に作られた洋式の旅館で、北一条西一丁目にあり、その庭園が大通りの北半にせり出していた。後に公民館・市民会館などに利用された。テレビ塔と新しい市民会館の建設のため中島公園に移設された。
  • 札幌市交通局) 戦後、豊平館の南に車庫、寮、営業所が置かれている。
大通西二丁目 (2004年4月)
観光用の馬車(2002年9月)

大通西二丁目

  • 地下鉄大通駅東豊線
  • 北海道電話交換創始の地碑 明治時代にはこの大通西二丁目の北半分に札幌逓信局、札幌郵便局の敷地がせり出していた。記念碑は1973年(昭和48年)に建てられた。
  • 農業仮博覧会) 1878年(明治11年)に大通西二丁目と大通西三丁目を使って開かれた。1887年(明治20年)から博覧会の会場は中島公園に移った。
  • (バレーボールコート) 戦後の一時期。

大通西三丁目

  • 大通西三丁目と大通西四丁目の間の道路はJR札幌駅から続く「駅前通り」で、最も人通りの多い場所である。
  • 地下鉄大通駅南北線東西線
  • 石川啄木歌碑 1981年(昭和56年)に建てられた。
  • 泉の像
  • 大通花草園) 1876年(明治9年)に大通西三丁目、大通西四丁目の二か所に開拓使が花壇を作った。これが大通が公園的なものになる端緒であった。
  • 永山将軍銅像) 屯田司令官だった永山武四郎の像。1909年(明治42年)11月に建てられた、1943年(昭和18年)に金属資源として軍に供出された。
  • 教会) 日本の敗戦後、札幌に進駐したアメリカ軍が教会堂を建てた。返還後に取り壊された。

大通西四丁目

大通西五丁目

  • 聖恩碑 天皇への感謝を表するために造られた石の塔。1938年(昭和13年)に建てられた。
  • 運動会場) 明治時代に空き地になっていた大通西側では、近辺の学校の運動会がしばしば開かれた。
  • テニスコート) 戦後の一時期。
開拓紀念碑(2004年10月)

大通西六丁目

  • 屋外ステージ
  • 開拓紀念碑 1886年(明治19年)に札幌市内の偕楽園に建てられ、1899年(明治32年)に大通に移された。
  • テニスコート、バスケットボールコート) 戦後の一時期。

大通西七丁目

  • 集団帰国記念碑
  • 黒田伯爵銅像) 開拓長官黒田清隆の銅像。1903年(明治36年)8月に建てられた。1943年(昭和18年)に軍に資源として供出された。
  • 野球場) 戦後の一時期。

大通西八丁目

  • 大通西八丁目と大通西九丁目は、間に道路がない広々としたスペースになっている。
  • ブラック・スライドマントラ イサム・ノグチ作の奇妙によじれた形の滑り台。1988年春、札幌市とノグチとの間でモエレ沼公園設計の合意が発表された際、同時にこの作品の大通公園への設置も発表された。ベネチア・ビエンナーレで発表され現在はマイアミにある白い「スライド・マントラ」の姉妹版である。この設置のために、西八丁目と西九丁目の間の道路は廃止されることになった。
ブラック・スライドマントラ外観
雪まつり前夜のマイバウム(2005年2月)

大通西九丁目

大通西十丁目

  • 黒田清隆之像 戦後に再度作られた黒田清隆の像。
  • ケプロン之像 開拓使顧問ホーレス・ケプロンの像。
  • 屯田兵第一大隊本部) 琴似と山鼻にある屯田兵中隊を統括する大隊の本部が置かれた。これより西は、通りの両側も含め、1896年(明治29年)まで練兵場として使われた。跡地は運動場に使われたが、1923年(大正12年)に札幌市が逍遥地(今でいう公園)として整備した。

大通西十一丁目

  • 地下鉄東西線西11丁目駅
  • マイバウム マイバウムとは木を飾りつけたもので、ドイツの民俗である。大通公園のマイバウムは木の形を模した巨大なもので、姉妹都市ミュンヘンから贈られ、1976年(昭和51年)に設置された。そのマイバウムは古くなったため2000年(平成12年)に撤去され、翌年に復元したものが立て直された。高さ25メートル。
  • 岩村通俊像) 岩村通俊は、開拓判官として札幌の建設にあたり、後に初代北海道庁長官になった。銅像は1933年(昭和8年)に建てられ、1943年(昭和18年)に軍に供出された。

大通西十二丁目

  • サンク・ガーデン 30種類のバラが咲く庭園。

大通西十三丁目

  • 公園の外だが、資料館が作られてからは公園の一部とみなせなくもない。
  • 札幌市資料館 札幌控訴院として1926年(大正15年)9月に完成した。煉瓦、札幌軟石、鉄筋コンクリートで造られた(大通西十一丁目を横切る石山通をつかって札幌軟石が運ばれた)。1973年に札幌市資料館となった。1997年に建物が国の登録有形文化財になった。
  • 札幌地方裁判所、札幌区裁判所) 1912年(明治45年)に建設。

大通公園の四季

ホワイトイルミネーション(2004年11月)

札幌に春の訪れを告げるのは4月下旬から営業を始める大通公園名物「とうきびワゴン」であるといっても過言ではない(とうきびとは道外でいうトウモロコシを指す)。昼間の公園は焼きとうきびを頬張る人々と、こぼれたとうきびをついばむハトの群れであふれている。余談だが、収穫したばかりの生とうきびを使った7月から9月の焼きとうきびは特におすすめである。

6月にはYOSAKOIソーラン祭りのメイン会場となる。南北大通の道路や公園内の特設ステージで、のべ4万人もの参加者が踊り歩く。そしてその数十倍の観客が押し寄せ大混雑となる。公園内には有料の桟敷席が設けられ、熱心な観客や、人混みを好まない人々に利用されている。

夏には巨大なビアガーデンに変身する。4大ビール会社がそれぞれに会場を設け(大通西五丁目から大通西八丁目)、ビールとつまみの味を競う。この他にも世界のビールを集めた会場(大通西十丁目)、各地の地ビールが合同出店する会場(大通西十一丁目・2003年まで)などがあり、天候にもよるが3週間で40万リットルほどのビールが消費される。

秋は木々が赤や黄色に色づき大変美しい。しかし落葉があらかた終わったころには、樹木は冬囲いが行われ、花壇やベンチは撤去され、とうきびワゴンの姿もなくなって、大通公園は一時の静寂を迎えることになる。

冬を迎え、街路樹に電飾を点すホワイト・イルミネーションが始まると、公園は再び活気を取り戻し始める。そして2月にはさっぽろ雪まつりが開催される。全国各地、さらには外国からも観光客が訪れ、大通公園が最も賑わう1週間である。

景観への配慮

公園沿いにあるコンビニエンスストアは札幌市都市景観条例に基づき景観に配慮し、看板に通常店とは異なる配色がされている。詳細はローソンサークルKサンクスの項を参照。但しセブン-イレブン(札幌大通西7丁目店、同9丁目店、10丁目店)のように配色が他店舗と変わらない店舗もある。

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