多気氏

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多気氏(たけし)は、常陸平氏大掾氏惣領家に当たる多気大掾家とも。通字は常陸平氏のそれである「」(もと)。

概要[編集]

平繁盛の息子で貞盛養子となった維幹が、常陸国筑波郡多気にて多気権大夫と称したのに始まる。維幹の孫・重幹の息子の代に常陸平氏の諸氏が形成される。

多気の姓は長男の致幹が継承するが、実際に多気の地に定着したのは致幹の時代であったと考えられ、彼が実質的な多気氏の祖であるとする見方がある[1]。致幹は『後三年合戦記』などで「多気権守宗基」という名で登場する。致幹の娘は河内源氏源頼義と一夜を共にし、娘を儲けたとされる。彼女は出羽清原氏の家督を継いだ成衡の妻になるが、その婚姻の席が切っ掛けで後三年の役が勃発したことは有名である。

致幹の嫡子直幹房総平氏千葉介常胤の娘と結婚して、多気義幹下妻弘幹東条忠幹真壁長幹を儲けている。

治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると、多気氏を始めとする常陸平氏の諸氏は同族の越後平氏や姻戚関係のあった佐竹氏と共に敵対する構えを見せた。しかし、佐竹征伐以降は頼朝に帰順した。

鎌倉幕府成立後、建久4年(1193年)5月の富士の巻狩りの直後にあたる同建久4年(1193年)6月に義幹は八田知家の中傷により失脚し(『吾妻鏡』)、常陸平氏の惣領家・大掾氏の座は同族の吉田氏の分家である馬場資幹が継承する(この一門を馬場大掾家と呼ぶ)。他方、下妻東條(東条)、真壁の分家は佐竹氏の家臣として存続した。

なお、近年の研究では馬場資幹が世襲による常陸大掾氏の祖であり、それ以前の常陸平氏が大掾の地位を継承したとする事実はなく(常陸国府が出した文書に当然あるべき大掾の署判が資幹以前には確認できない)、さらに常陸平氏そのものが12世紀の段階でいったん解体されており(常陸平氏の再建は鎌倉幕府の成立頃でそれ以前に惣領は存在しなかった)、この時期の多気氏は常陸平氏系の武士では最有力な家ではあったものの、常陸平氏の惣領でも大掾の地位にあったわけでもないとされている[1][2]。この考え方に従えば、常陸大掾に任じられたことがない致幹以降の多気氏を「多気大掾家」と呼ぶことは正しくはないということになる。

系図[編集]

平国香 
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 貞盛  繁盛
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    多気維幹   兼忠  維茂  安忠
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       ┃      維良                 
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多気為幹   伊佐為賢   那珂国幹
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多気重幹(繁幹)    為忠
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多気致幹                  吉田清幹  石毛政幹  常陸宗幹  小栗重義(重家)
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多気直幹                                 吉田盛幹  行方忠幹  鹿島成幹   女=源義業常陸源氏)
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多気義幹  下妻弘幹  東條忠幹  真壁長幹   吉田幹清  石川家幹  鹿島政幹  佐竹昌義    
 ┏━━┳━━┳━━┳━━┳━━━┳━━━┳━━┳━┻━┳━━━━━┓                         
高幹   武幹  光幹  宗幹  望幹  矢口幹明  秀幹  国幹   田山幹氏  馬場大掾資幹
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望幹       宗幹                                                    朝幹  泰幹  親幹  長幹

一族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 高橋修「『常陸平氏』再考」(初出:高橋 編『実像の中世武士団』高志書院、2010年)/所収:高橋 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一六巻 常陸平氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-167-7
  2. ^ 高橋修「常陸平氏成立史研究の現在」(所収:高橋 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一六巻 常陸平氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-167-7

関連項目[編集]