外枦保重秋

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外枦保重秋
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1948-10-14) 1948年10月14日(75歳)
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会
所属厩舎 栗東二分久男(1973 - 1985)
初免許年 1973年3月3日
免許区分 平地
騎手引退日 1985年9月22日
重賞勝利 1勝
通算勝利 156勝
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外枦保 重秋(そとへぼ しげあき、1948年10月14日 - )は、日本の元騎手調教助手

経歴[編集]

1973年3月3日栗東二分久男厩舎からデビューし、阪神第3競走4歳未勝利・アポミドリ(8頭中6着)で初騎乗を果たすと、同25日小倉第4競走アラブ4歳以上オープン・ミツノセカイで初勝利を挙げる。5月12日翌13日京都では初の2日連続勝利、6月24日中京では初の1日2勝を記録。1年目の同年から2桁で自己最多の25勝をマークし、3年目の1975年まで3年連続2桁勝利を記録。1975年にはNHK杯東京優駿でトップジローに騎乗し、NHK杯ではカブラヤオーのハナを叩いて逃げた[1]。東京優駿では強引に先頭を奪ったカブラヤオーに1コーナーから2コーナーと執拗に絡み[2]、実況していた長岡一也(当時・日本短波放送アナウンサー)は「玉砕戦法」と伝えたほか、後に大橋巨泉は「何でカブラヤオーに行かせてやらないんだ。最悪の騎乗だ」と批判した。3ハロン34秒5で飛ばし[3]、カブラヤオーは皐月賞を上回る前半1000m58秒6、1200mを1分11秒8という驚異的なハイラップを刻んでしまい、トップジローはカブラヤオーから5秒6遅れた26着に終わった[2]1977年から1979年には2度目の3年連続2桁勝利を記録し、1979年7月1日の阪神第4競走4歳未勝利・シンフェイムで通算100勝を達成。同年の阪神3歳ステークスではノースガストラフオンテースに次ぐと同時にオペックホースを抑えて2着に入り、連闘で挑んだ1980年の東京優駿では10着に敗れるが、皐月賞馬ハワイアンイメージには先着した[要出典]

1981年には1年目以来となる20勝をマークし、重賞ではジョーバブーンで京阪杯2着、阪神牝馬特別3着と活躍。1982年は自己最低の6勝に終わったものの、中日新聞杯ではハイセイコー産駒タツユウチカラでタニノチカラ産駒エントリーホープを抑えて、自身唯一の重賞勝利を飾る。1984年には8勝中4勝を秋の福島で挙げ、10月21日の第7競走きんもくせい特別では九州産馬ヨシノアンズで勝利し、同28日には自身最後の1日2勝をマーク。12月23日の阪神第1競走3歳未勝利・インターワカクサが最後の勝利、1985年9月22日の阪神第8競走4歳以上400万下・ヒミノヒカリ(16頭中16着)が最後の騎乗となった。同年に騎手を引退した[要出典]

引退後は二分久男厩舎の調教助手となった[要出典]

騎手成績[編集]

通算成績 1着 2着 3着 4着以下 出走回数 勝率 連対率
平地 156 142 168 1264 1730 .090 .172

主な騎乗馬[編集]

  • タツユウチカラ(1982年中日新聞杯)
その他
  • ノースガスト

脚注[編集]

  1. ^ 江面弘也『名馬を読む3』三賢社2021年5月22日ISBN 4908655197、p27。
  2. ^ a b 『名馬を読む3』、p28。
  3. ^ 日刊競馬で振り返る名馬 - カブラヤオー(1975年・日本ダービー)