千日回峰行 (比叡山)

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千日回峰行の祖、相応和尚像(無動寺)

千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)とは、滋賀県京都府にまたがる比叡山山内で行われる、天台宗回峰行の一つである。満行者は「北嶺大先達大行満大阿闍梨」と称される。

「千日」と言われるが実際に歩む日数は「975日」である。「悟りを得るためではなく、悟りに近づくために課していただく[1]」ことを理解するための行である。

概要[編集]

行者の服装(1954年7月発行の国際文化情報社「国際文化画報」より)

この行に入るためには、先達から受戒を受けて作法と所作を学んだのちに、「初百日満行」入り、その後7年の間、1 - 3年目は1年間に連続100日、4 - 5年目は1年間に連続200日、行を為す[2]

無動寺で勤行のあと、深夜2時に出発する。真言を唱えながら東塔西塔横川日吉大社と260箇所で礼拝しながら、約30km(キロメートル)を平均6時間で巡拝する。

途中で行を続けられなくなったときは自害する。そのための「死出紐」と、降魔の剣(短剣)、三途の川の渡り賃である六文銭、埋葬料10万円を常時携行する。

未開の蓮華の葉をかたどったをかぶり、白装束草鞋履きで行う。

堂入り[編集]

無動寺明王堂

5年700日を満行すると、最も過酷とされる「堂入り」が行われる。

行者は入堂前に生前葬となる「生き葬式」を執り行い、無動寺明王堂で足かけ9日[3]かけて断食・断水・断眠・断臥の4無行に入る。堂入り中は明王堂に五色の幔幕が張られ、行者は不動明王真言を唱え続ける。毎晩、深夜2時に堂を出て、近くの閼伽井で閼伽水を汲み、堂内の不動明王にこれを供えなければならない。水を汲みに出る以外は、堂中で10万回真言を唱え続ける[4]

堂入りを満了して「堂さがり」すると、行者は生身の不動明王ともいわれる阿闍梨となり、信者達の合掌で迎えられる。これを機に行者は自分のための自利行から、衆生救済の利他行に入る。

6年目はこれまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60kmの行程を100日続ける。

7年目は200日行い、はじめの100日は全行程84kmの京都大回りで、後半100日は比叡山中30kmの行程に戻る。

満行後[編集]

満行者は京都御所に土足参内し、加持祈祷を行う。京都御所内は土足厳禁だが満行者のみ許される。回峰行を創始した相応和尚草鞋履きで参内したところ文徳天皇女御の病気が快癒したから[5]であるとも、清和天皇の后の病気平癒祈祷で草履履きのまま参内したから[6]とも伝聞される。

回峰行初百日を終えた後に立候補し、先達会議で認められた者が行に入る。

十万枚大護摩供[編集]

千日回峰行満行者には、「十万枚大護摩供」を行う資格が与えられる[7]。十万枚大護摩供とは八日間、断食・断水・断眠・不臥で護摩木を10万本以上焚く荒行である(その修業の厳しさから「火あぶり地獄」とも称される[8])。

行者は、五穀(大豆小豆大麦小麦)の五穀と塩分を100日間摂取しない「前行」を行う。また入行前に「生き葬式」をしてこれに望む[9]

沿革[編集]

平安時代相応が始めたとされ、この行を2回終えた者は酒井雄哉を含み3人、3回終えた者は1人、4回終えた者は居ない。

千日回峰行者[編集]

グレゴリウス暦1900年以降の達成者を記す。比叡山延暦寺の焼き討ちにより史料等が消失しているため、人目はグレゴリウス暦1585年以降の人数を記す。

※年月日は満行日

二千日回峰行者[編集]

  • 1910年11月23日、正井観順[10]
  • 1926年、奥野玄順
  • 1987年7月、酒井雄哉

三千日回峰行者[編集]

  • 正井観順、1913年9月18日に通算2555日で死亡[10]
  • 1934年、奥野玄順[11]

他宗派の回峰行との相違[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]