内藤広泰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
内藤広泰
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 不詳
死没 元和4年8月2日1618年9月20日
改名 内藤伊勢寿(幼名)→内藤広泰
別名 内藤元廉
通称:六蔵→五郎兵衛尉
戒名 玉峯道珠
主君 毛利輝元秀就
長州藩
氏族 藤姓内藤氏
父母 父:内藤元泰、母:熊谷直清の娘
兄弟 広泰、女(児玉元道室)、元幸元友恒安吉盛
内藤元栄の娘
女(飯田就重室)、女(馬屋原元貞室、藤林惟清室)、伊勢福(内藤就久の妻)
養子:就久内藤元勝の次男)
テンプレートを表示

内藤 広泰(ないとう ひろやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期の人物。毛利氏の家臣で、長州藩士。父は内藤元泰

生涯[編集]

毛利氏の家臣である内藤元泰の嫡男として生まれる。はじめは六蔵を名乗ったが、文禄5年(1596年5月5日に輝元から五郎兵衛尉仮名を与えられた。

文禄・慶長の役では広泰も渡海しており、慶長3年(1598年1月27日付の毛利輝元からの書状で、蔚山での普請を油断無く済ませた後帰国するよう命じられた。また、慶長2年(1597年5月5日、父・元泰から所領を譲られている。

元和4年(1618年8月2日に死去した。広泰には男子がいなかったため、同年12月に内藤元勝の次男・就久(当時は幼名の道祖法師)が広泰の娘・伊勢福と婚姻し、婿養子として広泰の跡を継いだ。

参考文献[編集]