儀我誠也

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儀我 誠也
生誕 1888年11月11日
日本の旗 日本 東京府
死没 (1938-01-24) 1938年1月24日(49歳没)
天津
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1909 - 1937
最終階級 陸軍少将
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儀我 誠也(ぎが せいや、1888年明治21年〉11月11日 - 1938年昭和13年〉1月24日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴[編集]

東京都出身。技師・儀我克次郎の長男として生まれる。旧制洲本中学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業、石原莞爾と同期である。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第9連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。

1919年(大正8年)10月、第16師団司令部付となり、浦塩派遣軍司令部付、関東軍司令部付(ハルビン特務機関)、参謀本部員を歴任。1923年(大正12年)12月、参謀本部付仰付として張作霖軍事顧問となった。1925年(大正14年)5月、歩兵少佐に昇進。張作霖爆殺事件の際、張作霖の隣に呉俊陞、その次に儀我が座って会談していた中で爆発を体験している[1]

1929年(昭和4年)1月、歩兵第11連隊付となり、同年8月、歩兵中佐に進級。1930年(昭和5年)12月、第二高等学校配属将校に就任。1933年(昭和8年)5月、関東軍司令部付(山海関特務機関長)となり、1934年(昭和9年)3月、歩兵大佐に昇進。1935年(昭和10年)8月、歩兵第30連隊長に就任。

1937年(昭和12年)8月、支那駐屯軍司令部付となり、同月、北支那方面軍司令部付(天津特務機関長)に転じ、情報収集活動に従事したが、翌年1月、天津で戦病死し陸軍少将に昇進した。

栄典[編集]

親族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 東京日日新聞』1928年6月5日付夕刊、一面
  2. ^ 『官報』第7998号「叙任及辞令」1910年2月23日。
  3. ^ 『官報』第216号「叙任及辞令」1913年4月22日。
  4. ^ 『官報』第1738号「叙任及辞令」1918年5月21日。
  5. ^ 『官報』第3301号「叙任及辞令」1923年8月1日。

参考文献[編集]

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。