仙石政美

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仙石政美
時代 江戸時代後期
生誕 寛政9年9月29日1797年11月17日
死没 文政7年5月3日1824年5月30日
別名 主税(通称)
墓所 東京都文京区白山大乗寺
官位 従五位下讃岐守美濃守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
但馬出石藩
氏族 仙石氏
父母 仙石久道酒井忠恭娘軽子
兄弟 政美久大土岐政賢久利
吉田良長室、四条隆生室、松平忠質正室、節子、六条有容室ら
松平信明娘錦子
男子、久利
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仙石 政美(せんごく まさよし/まさみつ)は、但馬国出石藩6代藩主。出石藩仙石家9代。

生涯[編集]

第5代主・仙石久道の長男として生まれる。文化11年(1814年)9月20日、父が病で隠居したため家督を継いだ。しかし父の時代からの藩財政の悪化などから、文政2年(1819年)に藩の借金は6万両に膨れ上がっていた。このため、家臣団は藩政改革を目指したが、その改革方針をめぐって対立が起こる。

改革派の筆頭家老仙石久寿(左京)は、産物会所を中心にして生糸の専売・魚市場の育成による重商主義政策をかかげたが、守旧派の家老で仙石左京家の分家筋である仙石久恒(造酒。仙石久賢の子)が保守的な質素倹約による財政再建策をかかげて対立し、政美は左京の政策を支持して造酒を政治から遠ざけ、文政4年(1821年)7月には左京を大老にまで任じて改革を任せた。

文政7年3月16日、政美は出石を出発し、江戸へ向かった。道中で麻疹にかかり、4月5日に江戸に到着したものの、5月3日に亡くなった。享年28。政美にあった唯一の男児主税は早世していたため、嗣子がなかった。7月12日、隠居していた政美の父・久道は、親族会議を開き、政美の末弟(異母弟)である十二男の久利を末期養子にして跡を継がせることにした。久道の四男久大(旗本仙石久貞養子)、六男政賢も養子候補者であった。7月14日、出石藩は政美の死亡を公表した。この相続に際し、仙石左京は嫡子新之助とともに江戸に向かい、主家の乗っ取りと非難されることになる。

系譜[編集]