井上達三

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井上 達三(いのうえ たつぞう、1877年(明治10年) - 1950年(昭和25年))は、大日本帝国陸軍軍人。陸軍中将

井上成美海軍大将の実兄。妻は荒城二郎海軍中将(海兵29期、米内光政海軍大将[注釈 1]とクラスメートかつ親友)の妹[1]。井上達三の家族関係については、井上成美#家族・親類関係を参照。

本記事の出典は、特記ない限り、井上成美伝記刊行会編著 『井上成美』 井上成美伝記刊行会、1982年(昭和57年)、17-19頁。

経歴[編集]

宮城県仙台に生まれる。小学校時代は山梨勝之進海軍大将[注釈 1]と同級。

東北学院を経て、陸軍士官学校に進んだ。士官候補生(士候)11期、1899年(明治32年)11月卒業[2]。陸軍砲兵少尉に任官。士候11期の著名な同期生には、寺内寿一元帥[2]多門二郎中将[3][両名とも陸軍大学校(陸大)21期][4]がいる。

井上は、陸大を卒業せず、人事慣例で陸大卒と同等とみなされる資格(後述)も有しない「無天組」ながら[5]、臼砲・要塞砲の開発に寄与した重砲の権威で、少将として重砲兵学校長を務め、1932年(昭和7年)12月7日に中将に進級する[5][注釈 2]と同時に輜重兵監に補され、1935年(昭和10年)8月1日まで同職を務めた[6]。また、1943年(昭和18年)9月から終戦後の1945年(昭和20年)9月まで法政大学第二中学校(旧制)の校長(第2代)を務めている[7]

井上が畑違いの輜重兵監に補されたのは、輜重兵出身者の人材不足を補うためだった。井上は、輜重には素人ながら人格識見の卓越した教育家であったが、輜重兵出身者はなかなか納まらず、大臣官邸に座り込みをするなど騒いだ一幕もあった[8]

帝国陸軍では、陸大卒業者は、それまでの実績に基づく序列にかかわらず、陸士同期生の最右翼に置かれる特権的待遇を受け、他の陸士同期生を引き離して昇進した。また、砲工学校高等科優等卒業者、国内外の大学に派遣されて学位ないし工学士・理学士等の学士号を得た者は、陸軍の人事慣例上、陸大卒同等とみなされた[9]

陸軍史上、技術系の要職を歴任して大将に親任された「技術将校たる陸軍大将」は4名いる(士官生徒9期 田中弘太郎、士候5期 吉田豊彦、士候7期 緒方勝一、士候11期 岸本綾夫[10]。うち、緒方は「陸大卒業者・砲工学校高等科優等卒業者・学位ないし学士号保有者」の三要件のいずれにも該当しない「無天組」であった[11]。同じく「無天組」の技術将校であった井上は、大将親任には至らなかったが、緒方に準じた処遇を受けて中将に昇ったと思われる。

士候11期で、陸大卒業者以外で中将に進級した者は、井上を含めて7名いた[5]

うち2名(東京帝国大学造兵学科卒業の岸本綾夫1936年(昭和11年)8月1日に大将に親任される】、砲工学校高等科優等卒業の勝野正夫)は、「陸大卒同等とみなされた資格」を有する技術将校であり、陸大卒の寺内と多門に1年遅れるだけの1930年(昭和5年)8月1日に中将に進級した[5]

士候11期の陸大卒業者以外の中将進級は、井上を含む3名が1932年(昭和7年)12月7日に進級したのが最後であった[5]

注釈[編集]

  1. ^ a b 山梨勝之進海軍大将、米内光政海軍大将は、いずれも、井上成美と志を同じくする「条約派」の海軍高級士官であった。
  2. ^ 陸大卒の寺内と多門は、両名とも1929年(昭和4年)8月に中将に進級しており[2][3]、井上より約3年半先んじている。

出典[編集]

  1. ^ 『大衆人事録 東京篇』「井上達三」
  2. ^ a b c 秦郁彦編著 『日本陸海軍総合事典』 東京大学出版会1991年(平成3年)、96頁。
  3. ^ a b 『日本陸海軍総合事典』 86頁。
  4. ^ 『日本陸海軍総合事典』 526頁。
  5. ^ a b c d e 山口宗之 『陸軍と海軍-陸海軍将校史の研究』 清文堂、2005年(平成17年)、49頁。
  6. ^ 『日本陸海軍総合事典』 312頁。
  7. ^ 法政大学第二中・高等学校同窓会公式サイト/ 母校紹介 / 法政二高の沿革、もしくは『法政大学の100年―1880-1980』法政大学、1980年(昭和55年)を参照。
  8. ^ 額田坦 『陸軍省人事局長の回想』 1977年(昭和52年)、芙蓉書房、50頁。
  9. ^ 『陸軍と海軍-陸海軍将校史の研究』 46頁。
  10. ^ 『陸軍省人事局長の回想』 215-217頁。
  11. ^ 『陸軍と海軍-陸海軍将校史の研究』 47頁。