田中弘太郎 (陸軍軍人)

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田中弘太郎

田中 弘太郎(たなか こうたろう、1864年10月29日元治元年9月29日) - 1938年6月5日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。族籍は京都府士族[1]

経歴[編集]

京都府船井郡園部町(現南丹市)出身。園部藩士、田中弘作の長男として生れる。田中家は丹波園部藩主小出家の藩士であり、元和以来園部藩にて代々山方目付役を勤めた[2]

7歳の時浄教寺の寺子屋に学んだ[2]。後上野盤山という学者の塾に学び、更に1872年に至り園部町に新設された明親校に入って学を修めた[2]。18歳の頃小学校教員になろうとして試験を受けたが及第しなかったので、官吏になろうとして大阪に知己を訪ねて就職を求めたが、欠員なくその志望を達するに至らなかった[2]

1883年家督を相続する[1]1884年、陸軍士官学校に入学[2]1887年7月陸軍士官学校(旧9期)を卒業し、砲兵少尉任官。1888年7月、陸士砲兵科を終えて野砲兵第4連隊小隊長、陸軍砲兵射的学校教官を歴任。日清戦争では第5師団司令部付として出征した。その後、陸軍砲工学校教官、東京砲兵工廠製造所長、欧州差遣(駐独審査官)、大阪砲兵工廠技術課長などを歴任し、1913年8月、陸軍少将に進級した。

技術審査部審査官を経て、1918年7月、陸軍中将となり、陸軍科学研究所長、技術本部長、軍事参議官を勤める。1924年8月、陸軍大将となり、翌月予備役に編入され、1934年4月に退役した。

栄典[編集]

位階
勲章等

人物[編集]

  • 非常に口数が少なく余暇あれば和漢の書を読み、厭きなかった[15]武士堅気で無妻主義だった[15]
  • 工学博士に推挙されたが、軍に一生を捧げるとして辞退した。

家族・親族[編集]

田中家
  • 祖父・彌平次兵庫県多紀郡大芋村字小原の桑形家より田中家に養子となり、山方目付の役を継ぐ)[2]
  • 祖母(園部町字宮町・坂本家の娘)[2]
  • 父・道一(? - 1887年、俗名・弘作[2]) - 学を修め書に長じたため藩主の祐筆となり、明治時代には園部町の学務委員として町政に尽力[2]
  • 母・みさ子(? - 1918年、京都府船井郡竹野村字水戸の医師・世木澤玄伯の妹)[2]
  • 弟・幾次郎繁三郎平四郎正五郎[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b 『人事興信録 第9版』た43頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月7日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『陸軍大将田中弘太郎伝』3 - 8頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月7日閲覧。
  3. ^ 『官報』第2193号「叙任及辞令」1890年10月20日。
  4. ^ 『官報』第2571号「叙任及辞令」1892年1月28日。
  5. ^ 『官報』第4943号「叙任及辞令」1899年12月21日。
  6. ^ 『官報』第6367号「叙任及辞令」1904年9月17日。
  7. ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
  8. ^ 『官報』第150号「叙任及辞令」1913年1月31日。
  9. ^ 『官報』第1671号「叙任及辞令」1918年3月1日。
  10. ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
  11. ^ 『官報』第5525号「叙任及辞令」1901年12月2日。
  12. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月11日。
  13. ^ 『官報』第1190号「叙任及辞令」1916年7月19日。
  14. ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
  15. ^ a b 『現代船井郡人物史』12 - 13頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月7日閲覧。

参考文献[編集]

  • 『現代船井郡人物史』三丹新報社、1916年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
  • 陸軍技術本部高等官集会所編『陸軍大将田中弘太郎伝』陸軍技術本部高等官集会所、1940年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。