久野純固

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久野純固

久野 純固(くの すみかた、文化12年(1815年) - 明治6年(1873年7月26日)は、紀州藩田丸城代家老久野家8代当主。

父は紀州藩田丸城代久野昌純。正室は松平宗発の娘。幼名健之丞。通称織部。官位従五位下丹波守。

経歴[編集]

文化12年(1815年)紀州藩田丸城代久野昌純の子として生まれる。文政6年(1823年)父の死去により家督相続。文政9年(1826年)元服。天保6年(1835年)従五位下丹波守に叙任。安政元年(1854年)紀州沖の異国船来航を受けて、海防のために翌年田丸領度会郡五ヶ所浦、礫浦に砲台を建設する。万延元年(1860年)家老水野忠央失脚に連座して、藩政から遠のくも、文久3年(1863年)加判列に加えられ藩執政となる。慶応3年(1867年)藩政改革において対立する田中善蔵が殺害され、明治4年(1871年)に行われた実行犯の取調べで関与が疑われたが、証拠不十分で処罰されることはなかった。明治元年(1868年)隠居。明治6年(1873年)7月26日死去。

家臣森維明(森逸平)を江川英龍佐久間象山に入門させて西洋式砲術を学ばせ、領内に砲術練習場を設立した。また、俳句和歌漢詩に巧みな文人でもあり、漢詩集「深翠園」、「憐霞楼集」等を著した。

参考文献[編集]

  • 新人物往来社「三百藩家臣人名事典」
  • 田中敬忠著「紀州今昔 和歌山県の歴史と民俗」

関連項目[編集]