三村恪一
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
カタカナ | ミムラ カクイチ | |||||
ラテン文字 | MIMURA Kakuichi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
![]() | |||||
生年月日 | 1931年8月16日 | |||||
出身地 | 東京都 | |||||
没年月日 | 2022年2月19日(90歳没) | |||||
身長 | 166cm | |||||
体重 | 58kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FB | |||||
代表歴 | ||||||
1955 |
![]() | 4 (0) | ||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
三村 恪一(みむら かくいち、1931年8月16日[1] - 2022年2月19日)は日本出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFB。
経歴[編集]
第二次世界大戦後に都立第八中学校(東京都立小山台高等学校の前身)に編入しサッカーを始める。卒業後は中央大学に進学し、1953年には長沼健と共に日本学生選抜に選出され、ドイツのドルトムントで開催された国際大学スポーツ週間(ユニバーシアードの前身)に出場した。
大学卒業後は東邦チタニウムに入社し、同社にサッカー部を設立。選手兼指導者として選手強化や環境作りに奔走した。
日本代表としては、1955年1月の東南アジア遠征で代表デビュー。同月11日のビルマ(体協選抜)戦で国際Aマッチ出場を果たし(後の日本代表データの見直しで2日のビルマ(保険大臣チーム)戦が国際Aマッチと認められたため、現在はこの試合が国際Aマッチデビュー戦)、同年11月のメルボルンオリンピック代表メンバーに選出された。
現役引退後は東邦チタニウムサッカー部の監督として、関東サッカーリーグ優勝4回、1983年に日本サッカーリーグ2部昇格に導いた。その後は日本サッカー協会技術委員、指導委員、海上自衛隊厚木基地マーカスのコーチなどを務めた。
2022年2月19日、死去[2]。
所属クラブ[編集]
- 都立第八中学校(東京都立小山台高等学校の前身)
- 中央大学
- 東邦チタニウム
経歴[編集]
- 日本代表初出場:1955年1月2日 対ビルマ(保険大臣チーム)戦(ラングーン)
代表歴[編集]
出場大会[編集]
試合数[編集]
- 国際Aマッチ 4試合 0得点(1955)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
---|---|---|---|---|---|---|
年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1955 | 4 | 0 | 3 | 0 | 7 | 0 |
1956 | 0 | 0 | 3 | 0 | 3 | 0 |
通算 | 4 | 0 | 6 | 0 | 10 | 0 |
指導歴[編集]
- 東邦チタニウム:監督
- 日本サッカー協会:技術委員、指導委員
- 海上自衛隊厚木基地マーカス:チームアドバイザー
著書[編集]
- 『サッカー勝敗を左右する守備力』スキージャーナル、2008年 ISBN 4789900703
出典[編集]
- ^ 『日本代表公式記録集2008』 日本サッカー協会、2008年、605頁。
- ^ 三村恪一さん死去 元サッカー日本代表 - 東京新聞、2022年2月23日(2022年2月23日閲覧)
外部リンク[編集]
- 三村恪一 - Olympedia (英語)
- 三村恪一 - National-Football-Teams.com (英語)
- 三村恪一 - WorldFootball.net (英語)
- キャリナビ インターネットのお仕事人辞典 三村恪一
- 日本代表歴代記録 - 日本サッカー協会