ワンジュ (ナラ氏)

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ワンジュ/ワンジュ・ワイラン
名称表記
満文 ᠸᠠᠩᠵᡠ(・ᠸᠠᡳᠯᠠᠨ[1])
転写 wangju(・wailan[1])
漢文
  • 王中(明實錄)
  • 王忠(東夷考略)
  • 旺住・外蘭(滿洲實錄)
  • 旺濟・外蘭(八旗滿洲氏族通譜, 清史稿)
生歿即位
出生年 正徳年間?
即位年 嘉靖12(1533)-19(1540):ハダ部主
死歿年 嘉靖31(1552)
血筋(主要人物)
ケシネ(塔山左[2]都督)
ワン(王台)(初代ハダ国主)

ワンジュ (またはワンジュ・ワイラン) はナラ氏女真族。初代ハダ部主。ハダナラ氏始祖。「ワイラン」は満洲語で、一種の官名。[1]

父・ケシネが殺害された際に、開原 (現遼寧省開原市) の一帯へ南下して同地部落の部主となり、明朝に事えて後に女真諸部に覇を唱えたが、属部の叛乱で殺害された。

略歴[編集]

嘉靖12 (1533) 年、塔山左衛[2]の内乱でケシネ左都督が殺害された。[3]ケシネ左都督の次子・ワンジュは同衛の外に出ていため難を免れた。[4][5]ワンジュは迫害を逃れるべく松花江沿岸から一族を連れて南下し、開原 (現遼寧省鉄嶺市開原市) 靖安堡の広順関 (明朝から南関と呼ばれる) の外を流れるハダ・ビラ (哈達河=現・清河)[6]一帯に落ち着くと、その北岸にハダ・ホトン (哈達城) を築いてハダ部主となった。[5]

嘉靖19 (1540) 年旧暦3月27日、朵林山衛の都督僉事・額真哥らと古城衞の指揮同知・哈塔らが、時間を同じくして入貢した。額真哥がこの時、哈塔らにワンジュの秘密を訐(あば)きたてようとした為、ワンジュ属部の額克捏らは哈塔らを謗(そし)り口論となった。世宗・嘉靖帝が遼東鎮巡官を召して事情を追究させ、判明したところに拠ると、ワンジュは先ごろ海西部の兀允住と結託し、者帖列山衞 (/綽拉題山衛:ニングタ域内に比定)[7]の郎中・把禿らを殺害して貢勅35道を奪った。その後、把大[8]という者が兵を率いて兀允住を討ち仇をとったが、勅書35道はワンジュの許にのこった。ワンジュは額克捏らに命じて、手許にのこった貢勅に書かれている哈塔らの名を騙って入貢させたという。これを承けて嘉靖帝は、貢勅を哈塔らに返還し、また、額克捏らの進納した馬は既に官用に充てていた為、褒賞は約束通り与えたが、ワンジュの入貢を禁止した。[9]

嘉靖22 (1543) 年旧暦7月18日、入貢停止処分が解除され、更に都指揮僉事から都督僉事に昇任した。ワンジュは、嘉靖19年に入貢を停止された後、朵顔衛が北虜 (チャハル部?) と結託して開原などを襲撃するという情報を未然に上奏していた為、[10]その功績を理由に停止処分の解除を求めていた。明朝は激励の意味をこめて官職を昇格させ、併せて、部落の入貢を統轄するよう命じた。[11][12]

嘉靖29 (1550) 年 (/嘉靖24-25年)[13]頃、明朝の命令を承け[14]、塔魯木衛[15]都督僉事・チュクンゲを誅殺して貢勅700を横奪し、13部落を奪取した。[16]チュクンゲの子孫は殺された父祖の無念と奪われた貢勅および部落を代々忘れず、執拗にハダの部落を襲い、この確執はハダが滅亡するまで続いた。

嘉靖30 (1551) 年旧暦7月5日、都督への昇任を要望し、許可された。[17][18]海西などの諸衛の敕書999通はすべてワンジュの所有となり、建州の500通をも管制したことで、ハダは女真各部における覇者となった。[19]史書はハダの隆盛を「東夷ハ海西、建州ヨリ182衛、20所、56站ガ皆其ノ約束ニ聴(したが)ヒ……一時ハ開遼東辺、一夷トシテ敢ヘテ居民ヲ犯ス無キハ、皆(王)忠ノ力也」[20]と称えている。[19]周辺のモンゴル、遠方の東海女真各部でさえもワンジュを首領として敬い、每年貢賦を納めた。[21]

嘉靖31 (1552) 年、属部が叛乱してワンジュは殺害され、子のボルコン・シェジンはシベ部[22]のスイハという城 (現吉林省吉林市西方)[23]に身を隠していたワンを招聘して部主の地位を承継させた。萬は叛乱を制圧するとワンジュの築いた基礎をもとにハダ・グルンを樹立し、汗(ハーン)を称した。

子孫[編集]

系図[編集]

*本項目は『八旗滿洲氏族通譜』巻23「哈達地方納喇氏」(特に大半は「蘇巴海」) を基に作成した。それ以外に出典がある場合のみ別途脚註を附す (次の「栄典」の項目に就いても同様)。

*父不詳の人物全てに別々の人物を父あるいは父祖として充てていては際限がない為、適宜、父不詳の人物同士でまとめた。譬えば、ワンジュの曾孫なる人物が二人でてくる場合、兄弟なのか、従兄弟 (いとこ) なのか、再従兄弟 (はとこ) なのか不明でも、便宜上同じ一人の人物の下にまとめた。反対に、人物をあえて分けたものでも、詳細情報のない人物同士であれば同一人物である可能性も考えられる。

  • 子・ボルコン・シェジン[24]
  • 子:不詳。
    • 孫:不詳。
      • 曾孫・ナムダリ (namdari, 納穆達理):スバハイの実兄。父不詳。
        • 玄孫・ナム (namu, 納穆):ナムダリの子。副都統を務めた。
          • 来孫・ラタ (lata, 拉塔):ナムダリの孫。父不詳。参領を務めた。
            • 昆孫・スチャン (sucan, 蘇禅):ナムダリの曾孫。父不詳。筆帖式を務めた。
            • 昆孫・ナハイ (nahai, 納海):ナムダリの曾孫。父不詳。筆帖式を務めた。
              • 仍孫・ナチン (nacin, 納親):ナムダリの玄孫。父不詳。筆帖式を務めた。
              • 仍孫・ロチャ (loca, 羅察):ナムダリの玄孫。父不詳。驍騎校を務めた。
                • 雲孫・リングワムボー (linguwamboo, 霊官保):ナムダリの来孫。父不詳。驍騎校を務めた。
                • 雲孫・ヘイゲ (heige, 黒格):ナムダリの来孫。父不詳。驍騎校を務めた。
      • 曾孫・スバハイ (subahai, 蘇巴海):ワンジュの曾孫。父不詳。鑲白旗人。ヌルハチ建国初期に族人を連れて帰順。
        • 玄孫・マンゴ (manggo, 莽果):スバハイの長子。帰順時の族人200人で編成されたニルを統括した。
          • 来孫・マラ (mala, 馬拉):マンゴの子。副都統を務めた。
          • 来孫・フンナリ (hūngnari, 洪納理):マンゴの子。佐領を務めた。
            • 昆孫・マキ (maki, 馬緝):マンゴの孫。父不詳。都統、鎮安将軍を務め、佐領を兼任した。
            • 昆孫・カルキ (karki, 喀爾啓):マンゴの孫。父不詳。護軍校を務めた。「栄典」参照。
              • 仍孫・カルダイ (kardai, 喀爾岱):カルキの子。「栄典」参照。
                • 雲孫・ナフ (nafu, 納福):カルダイの子。「栄典」参照。
              • 仍孫・バジンタイ (bajintai, 巴晋泰):マンゴの曾孫。父不詳。二等侍衛を務めた。
              • 仍孫・チゲ (cige, 斉格):マンゴの曾孫。父不詳。参領を務め、給事中を兼任した。
              • 仍孫・チャンライ (canglai, 常賚):マンゴの曾孫。父不詳。内大臣などを歴任した。「栄典」参照。
              • 仍孫・ヅンジュ (dzunju, 存住):マンゴの曾孫。父不詳。郎中を務めた。
                • 雲孫・ナルサイ (narsai, 納爾賽):マンゴの玄孫。父不詳。佐領を務めた。
                • 雲孫・ナジャン (najan, 納瞻):マンゴの玄孫。父不詳。佐領を務めた。
                • 雲孫・ナシャン (našan, 納善):マンゴの玄孫。父不詳。員外郎を務めた。
                • 雲孫・サルタイ (sartai, 薩爾泰):マンゴの玄孫。父不詳。筆帖式を務めた。
                • 雲孫・ユゲ (ioige, 玉格):マンゴの玄孫。父不詳。筆帖式を務めた。
        • 玄孫・タング (tanggū、唐武):スバハイの次子。
          • 来孫・サルダイ (sardai, 薩爾岱):タングの子。前鋒参領を務めた。
          • 来孫・アルダイ (ardai, 阿爾岱):タングの子。頭等侍衛を務めた。
            • 昆孫・リョゲ (lioge, 六格):タングの孫。父不詳。員外郎を務めた。
            • 昆孫・ショセ (šose, 碩色):タングの孫。父不詳。筆帖式を務めた。
              • 仍孫・ダシュ (dašu, 達舒):タングの曾孫。父不詳。三等侍衛を務めた。
        • 玄孫・シンナイ (singnai, 星鼐):スバハイの三子。工部理事官、工部侍郎を務めたが罷免された。「栄典」参照。
          • 来孫・チェンゲ (cengge, 成格):シンナイの長子。協領を務めたが、事件に連座し罷免された。「栄典」参照。
            • 昆孫・チェムブ (cembu, 臣布):チェンゲの子。佐領を務めた。「栄典」参照。
          • 来孫・チェンデ (cengde, 成徳):シンナイの次子。佐領を務めた。
        • 玄孫・シナハイ (sinahai, 錫納海):スバハイの四子。
          • 来孫・バシ (baši, 巴什):シナハイの子。護軍参領を務めた。
            • 昆孫・バダ (bada, 巴達):シナハイの孫。父不詳。員外郎を務めた。
            • 昆孫・ウェイトボー (weitoboo, 韋䭾保):シナハイの孫。父不詳。筆帖式を務めた。
            • 昆孫・アイムブ (aimbu, 愛音布):シナハイの孫。父不詳。驍騎校を務めた。
              • 仍孫・ヘシュン (hešūn, 赫順):シナハイの曾孫。父不詳。驍騎校を務めた。
                • 雲孫・チンフ (cingfu, 清福):シナハイの玄孫。父不詳。筆帖式を務めた。
        • 玄孫・イナハイ (inahai, 伊納海):スバハイの五子。
          • 来孫:不詳。
            • 昆孫・トーチャン (toocan, 陶禅):イナハイの孫。父不詳。筆帖式を務めた。
              • 仍孫・トゥンボー (tungboo, 通保):イナハイの曾孫。父不詳。筆帖式を務めた。
        • 玄孫・ウェヘ (wehe, 倭赫):スバハイの六子。関口守禦を務めた。
          • 来孫・ヒフェンコウ (hifengkeo, 喜峯口):ウェヘの子。筆帖式を務めた。
          • 来孫・ダンガイ (danggai, 党愛):ウェヘの子。六品典儀、副都統を歴任し、佐領を兼任した。「栄典」参照。
            • 昆孫・ジャムブ (jambu, 占布):ダンガイの子。襲職。「栄典」参照。
            • 昆孫:不詳。
              • 仍孫・ボーフ (boofu, 保福):ジャムブの実弟の子。佐領を務めた。「栄典」参照。
            • 昆孫・ギムブ (gimbu, 金布):ウェヘの孫。父不詳。佐領を務めた。
            • 昆孫・ヤムブ (yambu, 顔布):ウェヘの孫。父不詳。護軍校を務めた。
      • 曾孫・アブハイ (abuhai, 阿布海):スバハイの実弟。
        • 玄孫:不詳。
          • 来孫・タダイ (tadai, 塔岱):アブハイの孫。父不詳。驍騎校を務めた。
            • 昆孫・タイシ (taiši, 台什):アブハイの曾孫。父不詳。筆帖式を務めた。
              • 仍孫・セケ (seke, 塞克):アブハイの玄孫。父不詳。護軍校を務めた。
  • 子:不詳。
    • 孫:不詳。
      • 曾孫:不詳。
        • 玄孫:不詳。
          • 来孫・バシ (baši, 巴実):ワンジュの四世孫。父不詳。護軍参領を務めた。
            • 昆孫・アイムブ (aimbu, 艾音布):バシの子。驍騎校を務めた。

栄典[編集]

カルキ (喀爾啓)[編集]

スバハイ (蘇巴海) の長子・マンゴ (莽果) の孫・カルキは、護軍校として湖広 (現在の湖北湖南両省を含む広域行政区域) に出征し、荆州府 (現湖北省荊州市) から援助に向った江寧 (現江蘇省南京市) で都督の楊文英らの兵を破り、続けて撫州府 (現江西省撫州市) 包囲戦で抗戦する敵兵を撃ち破り、死後、雲騎尉を追贈された。カルキの子・カルダイ (喀爾岱) が襲職したが病気を理由に返上し、カルダイの子・ナフ (納福) が襲職した。

チャンライ (常賚)[編集]

マンゴの曾孫・チャンライ (常賚) は、広東布政使から雲南巡撫に昇官し、継いで刑部侍郎の官職を授けられ、勅命により寧夏将軍印務を代行した。後、鎮安将軍に任命され、ジュンガル討滅で立て続けに手柄を立て、副将軍に任命された。

シンナイ (星鼐)[編集]

スバハイの三子・シンナイ (星鼐) は、能力を買われて騎都尉 (世職) を授けられ、順義県城 (現北京市順義区) を攻略したことで騎都尉兼一雲騎尉に昇格した。その後、工部理事官に昇官。五年後、職能を評価されて三等軽車都尉に昇格した。延安 (現陝西省延安市)、池州 (現安徽省池州市) などでの流賊征討で立て続けに手柄を挙げ、また、テンギス (tenggis, 滕吉思) を追ってトシェート・ハーン (土謝図汗) およびショロイ・ハン (šoloi han, 碩羅汗) らの兵を撃ち破った戦功により二等軽車都尉に昇級した。その後、工部侍郎に昇官。三年後、職能を評価されて一等軽車都尉に昇級、更に (順治年間の) 三度の恩賞により二等男爵に陞叙された。その後、事件に連座して騎都尉を剥奪され、一等軽車都尉兼一雲騎尉に降格した。シンナイ死後、長子のチェンゲ (成格) が承襲したが、事件に連座し世職を剥奪された。チェンゲの子・チェムブ (臣布) が襲職したが、恩賞による加増分を削られ、一等軽車都尉に降級した。

ダンガイ (党愛)[編集]

スバハイの六子・ウェヘ (倭赫) の子・ダンガイ (党愛) は、六品典儀として雲南に出征し、石門坎 (現貴州省)、黄草壩 (現貴州省興義市) においての何継祖らの兵を立続けに破り、また、雲南城を出て抗戦する胡国秉の兵10,000余りを撃ち破った戦功により騎都尉 (世職) を授与された。後、オイラト部ガルダン (噶爾丹) 征討で敵軍を破り、騎都尉兼一雲騎尉に昇格した。ダンガイ死後、子のジャムブ (占布) が襲職し、ジャムブ死後、実弟の子・ボーフ (保福) が襲職した。

参照先・脚註[編集]

  1. ^ a b c “ᠸᠠᡳᠯᠠᠨ wailan”. 新满汉大词典. 新疆人民出版社. p. 800. http://hkuri.cneas.tohoku.ac.jp/project1/imageviewer/detail?dicId=72&imageFileName=800. "[名] ❶〈官〉宰 (古官名)。❷〈官〉外郎 (小官吏名):wailan i adali akū oci ainu ninggun boode gemu šurdeme yabumbi.《15・金》不像外郎如何六房里都串到。❸ 吏:dukai wailan 门吏。wailan jenduken i alarangge butui jalan i yamun, niyalmai jalan de adališarakū.《11・聊》吏隐进曰,阴曹不与人世等。" 
  2. ^ a b “附明衛所城站考-塔山左衞”. 滿洲源流考. 13. 不詳. https://zh.wikisource.org/wiki/欽定滿洲源流考_(四庫全書本)/卷13#塔山左衛. "明實録作前衞即國初哈達國地明人所謂南關也正統間授部長錫赫特及其孫王台爲左都督太祖己亥年平其國" 
  3. ^ 一、ハダ・イェヘ両国の盛衰と勅書の争奪. “明末の海西女直と貢勅制”. 立命館文學 (579): 819. 
  4. ^ 乌拉国简史. 中共永吉県委史弁公室. p. 50 
  5. ^ a b 努尔哈赤编年体传记. 1. 大連出版社. p. 135-138 
  6. ^ 维基百科「王忠 (哈达部长)」より引用。現在「哈达河」と呼ばれる河川は黒龍江省鶏西市鶏東県を流れていて、異なる。開原を流れるハダ・ビラは現在の清河にあたるとされる。
  7. ^ “附明衞所城站考”. 滿洲源流考. 13. 不詳. https://zh.wikisource.org/wiki/欽定滿洲源流考_(四庫全書本)/卷13#附明衛所城站考. "綽拉題山衞舊訛者列帖又訛者帖列今併改按寧古塔境内有綽拉題屯" 
  8. ^ 维基百科は、李澍田『海西女真史料』(吉林文史出版社, 1986) p.93からの引用で「把太」とし、更に同書は『明實錄』「嘉靖十九年三月己末」の条項からの引用であると記しているが、中央研究院歴史語言研究所 (台湾) 版の『明實錄』では「把大」となっている。
  9. ^ “嘉靖十九年三月27日”. 明世宗実録. 235. 不詳 
  10. ^ “嘉靖二十二年四月11日”. 明世宗實錄. 273. 不詳. "……林廷壆等勘上去秋遼東定遠靉陽等處功罪言先犯開原等處係朵顏夷人導誘北虜海西夷人王中預行傳報……" 
  11. ^ “嘉靖二十二年七月18日”. 明世宗實錄. 276. 不詳. "○辛酉……○陞海西夷人都指揮僉事王中為都督僉事先是遼東撫按官言中先年冐貢害人朝命絕其入貢近中偵報虜情有功乞許其入貢仍加陞賞以示激勸詔陞中都督僉事令約束部落入貢并諭以舊罪朝廷業已置之宜益修忠順以圖報効" 
  12. ^ 维基百科(翻訳元)「……因帮助明廷侦查、提供女真内部情报和朵颜卫联合察哈尔蒙古想要进犯明朝边境的情报有功,……」より引用。典拠として李澍田『海西女真史料』(吉林文史出版社, 1986) p.94を挙げ、且つ同頁は『明實錄』の「嘉靖二十二年七月辛酉」(巻276) の条項からの引用であるとしている。但し、「朵颜卫联合察哈尔蒙古想要进犯明朝边境」に関する記載は巻273「嘉靖二十二年四月乙酉」の条項からの引用である。
  13. ^ 脚註. “明末の海西女直と貢勅制”. 立命館文學 (579): 849. 
  14. ^ 叶赫那拉氏家族史研究. 吉林文史出版社. pp. 25,48 
  15. ^ “附明衛所城站考-達喜穆魯衞”. 滿洲源流考. 13. 不詳. https://zh.wikisource.org/wiki/欽定滿洲源流考_(四庫全書本)/卷13#達喜穆魯衛. "舊訛塔魯木今改正明實録永樂四年置爲葉赫國地部長祝孔額嘗授達喜穆魯衞都督僉事即明時所稱北關也太祖乙未年滅之考葉赫相近惟達喜穆魯山南爲古尼河北爲葉赫傳聞不審誤倒其音耳" 
  16. ^ “萬”. 清史稿. 223. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷223#萬. "葉赫部長褚孔格數爲亂,旺濟外蘭執而僇之,奪其貢敕七百道,及所部十三寨。" 
  17. ^ 『明世宗實錄』巻375の原文は「塔山丹等衛夷人王中等二十八人奏請陞襲都督都指揮等職許之」で、恐らく「塔山前等衛…」の誤り。
  18. ^ “嘉靖三十年七月5日”. 明世宗実録. 375. 不詳 
  19. ^ a b 海西女真史料. 吉林文史出版社. pp. 284-285 
  20. ^ 维基百科「王忠 (哈达部长)」より引用。不詳。
  21. ^ 海西女真史料. 吉林文史出版社. p. 276 
  22. ^ “ᠰᡳᠪᡝ Sibe”. 满汉大辞典. 遼寧民族出版社. p. 500. http://hkuri.cneas.tohoku.ac.jp/project1/imageviewer/detail?dicId=6&imageFileName=500. "〔名〕① 锡伯,清初部落名,今锡伯族。" 
  23. ^ “ᠰᡠᡳᡥᠠ suiha”. 新满汉大词典. 新疆人民出版社. p. 693. http://hkuri.cneas.tohoku.ac.jp/project1/imageviewer/detail?dicId=72&imageFileName=693. "[名] ❷〈地〉绥哈城 (位于今吉林省吉林市西约五十里)。" 
  24. ^ ボルコン・シェジン:ᠪᠣᠯᡴᠣᠨ ᡧᡝᠵᡳᠨ, bolkon Sejin, 博爾坤舎進 (滿洲實錄、八旗滿洲氏族通譜、清史稿)。维基百科「哈达那拉氏」では「博尔坤舍进」を「博尔坤+舍+进」で「博尔坤がベイレ即位 (进) を放棄した (舍)」と現代語訳されているが、満文版の『滿洲實錄』にある通り、「博尔坤舍进」で人物名 (二名、或いは人名+官職か)。簡体字では「舎shè」と「捨shě」とが「舎」に統合されている為、それで勘違いしたか。

参考文献・史料[編集]

史籍[編集]

  • 徐階, 張居正『明世宗實錄』1577 (漢文)
  • 愛新覚羅・弘昼, 西林覚羅・鄂尔泰, 富察・福敏, (舒穆祿氏)徐元夢『八旗滿洲氏族通譜』四庫全書, 1744 (漢文)
  • ortai(鄂爾泰)『han i araha jakūn gūsai manjusai hala be uheri ejehe bithe』(欽定八旗氏族通譜) 1745 (満洲語)
  • 編者不詳『滿洲實錄』1781 (漢文)
  • 編者不詳『滿洲源流考』巻13「附明衛所城站考」四庫全書 (漢文)
  • 趙爾巽, 他100余名『清史稿』巻223, 清史館, 1928 (漢文)

書籍[編集]

  • 李澍田『海西女真史料』吉林文史出版社, 1986 (中国語)
  • 趙東昇, 宋占栄『乌拉国简史』中共永吉県委史弁公室, 1992 (中国語)
  • 安双成『满汉大辞典』遼寧民族出版社, 1993 (中国語)
  • 胡增益 (主編)『新满汉大词典』新疆人民出版社, 1994 (中国語)
  • 松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』白帝社, 1995
  • 薛柏成『叶赫那拉氏家族史研究』吉林文史出版社, 2005 (中国語)
  • 高慶仁『努尔哈赤编年体传记』巻1, 大連出版社, 2008 (中国語)