張居正

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張居正
荊州市にある張居正の故居
張居正
各種表記
繁体字 張居正
簡体字 张居正
拼音 Zhāng Jūzhèng
和名表記: ちょう きょせい
発音転記: ヂャン ジュヂォン
ラテン字 Chang1 Chü1-cheng4
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張 居正(ちょう きょせい、1525年5月24日嘉靖4年5月3日) - 1582年7月9日万暦10年6月20日))は、中国代の政治家は叔大、封号上柱国は太岳、は文忠。万暦帝の元で強力な指導力を発揮して政治改革を推し進めたが、その一方で強引に政敵を蹴落とすやり方は恨みも買った。

出自[編集]

嘉靖4年(1525年)、湖北江陵県の生まれ。幼少時より聡明の誉が高く、12歳にして生員に合格した。この時の試験官である荊州知府の李士翱にその才能を絶賛される。13歳の時に郷試を受験し、郷試主考官の湖広巡撫顧璘にその才を認められ、顧は張居正を“小友”と称したほどであった。しかし顧は張居正を国を担う有為の人材と認めつつも、同時にその才が幼少にしてあまりに過ぎたるため、修練を積ませる意味で郷試に落第させた。後、16歳で郷試に合格する。嘉靖24年(1547年)の進士に及第し、翰林院庶吉士となる。容姿は眉目秀麗で、美しい髭が腹まで届いたという。

政権獲得への道[編集]

徐階にその才能を認められ、門弟となる。徐階が首輔(宰相)となるとその信任は更に厚くなり、礼部右侍郎・吏部左侍郎・礼部尚書などを歴任し、隆慶元年(1567年)に入閣、徐階が嘉靖帝の遺詔にことつけて、嘉靖帝が重用した道士を排除する際にはその片腕を務めた。

徐階の政敵である高拱はこの謀議から外されていたことで徐階を恨み、徐階の子の罪を挙げて徐階を弾劾するが、逆に反撃に遭い罷免された。下野した高拱は太監の李芳などと結んで、徐階の失脚を狙うようになる。その後、徐階は1568年に致仕し、その後任として礼部尚書の趙貞吉が選ばれた。高拱は復権のための運動を行い、李芳を通じて張居正に協力を求め、高拱は復権して趙貞吉に代わって首輔となった。

張居正は高拱と結んで権力を振るったが、さらに独裁権を得るために高拱に恨みを持っていた宦官馮保と結び、高拱を陥れようとした。隆慶帝1572年に死去し、張居正が傅(守役)を務めていた万暦帝が即位する。この時に隆慶帝の遺詔を利用して高拱を解任させ、自ら首輔の地位に上った。

宰相として[編集]

幼帝を擁した張居正は独裁的な手腕を振るい、次々と改革を実行していった。まず、官吏の弾劾を行う職である言官や各地の書院などの口を封じて独裁権を確立し、冗費の撤廃・綱紀粛正などを行った。そして張居正の功績として最大のものが、全国的な丈量の実施と一条鞭法の実施である。

  • 当時、地方に強い勢力を張っていた郷紳勢力は所有地の量をごまかして報告し、税逃れをすることが多かったが、張居正はこれに断固として挑み、大量の隠し田を摘発した。
  • それまでの税制である両税法は項目が多岐にわたり、あまりにも複雑化した結果、不公平が酷くなっていた。一条鞭法はそれを一本化し、課税対象を土地に移して、さらに当時普及が進んでいた銀による納税にした。

これらの改革により明の財政は大きく好転し、国庫には10年分の食料と400万両の余剰金が積み上げられたと言う。

しかし、その一方で言論弾圧・既得権の侵害などにより、朝野には張居正に対する不満が満ちた。万暦5年(1577年)には父が死去し、本来ならば服喪(丁憂)のために職を辞さねばならなかったが、離職中の弾劾を恐れて職務を続けた。万暦9年(1581年)に病に倒れ、翌年に死去した。齢58。上柱国の封号と文忠を贈られた。

死後[編集]

死後すぐに、親の服喪を欠かしたことなどを理由とした弾劾が相次ぎ、万暦11年(1583年)には封号と諡を剥奪された上、死後であるが死刑扱いとされ、家産は全て没収された。長男の張敬修は自殺に追い込まれ、それ以外の家族は辺境に送られた。

台湾出身の著述家張明澄の家系は、代に福建省から台湾に逃れた張居正の子孫と自称し、張居正が書き残したという文書『経世済民書』を伝承する。

張居正は教師として万暦帝を非常に厳しく教えたが、これは逆効果になったと言われている。その後の万暦帝は堕落し、過度の奢侈と政治への無関心で、張居正が積み上げた蓄積は全て消えてた。以後の明は完全に衰退し、滅亡への道をひた走ることになる。

外部リンク[編集]