ルドルフ・マテ

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ルドルフ・マテ
Rudolph Maté
本名 Rudolf Matheh
(Rudolf mayer)
生年月日 (1898-01-21) 1898年1月21日
没年月日 (1964-10-27) 1964年10月27日(66歳没)
出生地 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国(現・ポーランドクラカウ
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ハリウッド
職業 撮影監督、映画監督
活動期間 1923年 - 1962年
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ルドルフ・マテRudolph Maté A.S.C., 本名:Rudolf Matheh / Rudolf Mayer[1] 1898年1月21日 - 1964年10月27日)は、オーストリア=ハンガリー帝国(現・ポーランド)・クラカウ出身の撮影監督映画監督

来歴[編集]

ブダペスト大学卒業後、アレクサンダー・コルダ主催のコルヴィン映画製作所に入り[1]、ヨーロッパ映画界で撮影技師として活動を始め、カール・テオドア・ドライヤーフリッツ・ラングルネ・クレールなどの監督作品に関わる。

彼がその名を挙げたのはドライヤー監督の映画『ミカエル』(1924年)で、当初正式カメラマンだったカール・フロイントが制作途中に他の作品の撮影にまわされてしまったために、マテが撮影を引き継いだ。ドライヤーはマテの仕事ぶりを高く評価し、次作の『裁かるるジャンヌ』(1928年)、『吸血鬼』(1930年)でもマテを起用した。映画批評家のドナルド・リチーは『裁かるるジャンヌ』でのマテの仕事ぶりについて、「彼はドライエル(ドライヤー)と(主演の)ルネ・ファルコネッティと共に三脚の一本を担う者だった。ドライエルの意図を実現したのは彼であり、異端糾問所において詰問する裁判僧たちのいくつかの顔を、ふいに画面全体を満たすかに思われるすぐれた大写しにとらえたのも彼である。」と高く評価した[2]

1930年代半ばに渡米、ハリウッドに活躍の場を移す[1]1947年に映画監督に転身。

撮影監督時代、アカデミー撮影賞に5回ノミネートされている[3]

1964年10月27日心筋梗塞で死去。66歳。

主な作品[編集]

撮影[編集]

監督[編集]

  • 都会の牙 D.O.A. (1950年)
  • 武装市街 Union Station (1950年)
  • 烙印 Branded (1950年)
  • 盗賊王子 The Prince Who Was a Thief (1951年)
  • 地球最後の日 When Worlds Collide (1951年)
  • 第二の機会 Second Chance (1953年)
  • ミシシッピーの賭博師 The Mississippi Gambler (1953年)
  • フォルウォスの黒楯 The Black Shield of Falworth (1954年)
  • レッド・リバー Siege at Red River (1954年)
  • 欲望の谷 The Violent Men (1954年)
  • 遥かなる地平線 The Far Horizons (1955年)
  • 顔役時代 The Rawhide Years (1955年)
  • 雨の夜の慕情 Miracle in the Rain (1956年)
  • 三人のあらくれ者 Three Violent People (1957年)
  • 初恋 For the First Time (1959年)
  • カルタゴの大逆襲 Revak the Rebel (1960年)
  • スパルタ総攻撃 The 300 Spartans (1962年)
  • 海賊魂 Il dominatore dei sette mari (1962年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c Rudolph Maté”. cinematographers.nl. 2013年5月17日閲覧。
  2. ^ ドナルド・リチー「裁かるるジャンヌ」『映画芸術の革命』二〇世紀芸術叢書3/昭森社/1958年
  3. ^ Rudolph Maté - Awards

外部リンク[編集]