ラントシュ・ミハーイ

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Flag of Hungary.svg この項目では、ハンガリー語圏の慣習に従い、名前を姓名順で表記していますが、印欧語族風にミハーイ・ラントシュと表記することもあります。
ラントシュ・ミハーイ Football pictogram.svg
名前
ラテン文字 Mihály Lantos
基本情報
国籍  ハンガリー
生年月日 1928年9月29日
出身地 ブダペスト
没年月日 (1989-12-31) 1989年12月31日(61歳没)
選手情報
ポジション MFDF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1947-1961 ハンガリーの旗 MTKブダペストFC[1]
代表歴
1949-1956 ハンガリーの旗 ハンガリー 52 (5)
監督歴
1968-1975 ハンガリーの旗 コムローイ・バーニャースSK
1975-1977 ハンガリーの旗 ナジカニジャイ
1977-1980 ハンガリーの旗 ヴィデオトンFC
1980-1981 ハンガリーの旗 ザラエゲルセギTE
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ラントシュ・ミハーイLantos Mihály, 1928年9月29日 - 1989年12月31日)は、ハンガリー出身のサッカー選手サッカー指導者

経歴[編集]

ラントシュは、1948年MTKハンガリアFCへ入団。翌年にハンガリーが共産主義国となるとクラブは秘密警察に買収され数度の名称変更を繰り返したが、一貫して同クラブに在籍。ヒデクチ・ナーンドルらと共に1950年代には3度の国内リーグ、ハンガリーカップ、ミトローパ・カップ優勝などに貢献した。1955年にはUEFAチャンピオンズカップに出場し準々決勝進出に貢献した(当時の名称はヴォロシュ・ロボゴーSE)。

ハンガリー代表としては、1949年7月10日ポーランド戦で代表デビューをすると[2]1956年7月9日ポルトガル戦で引退するまで国際Aマッチ52試合出場5得点を記録した[2]。ラントシュは1952年ヘルシンキオリンピック金メダル、1953年中央ヨーロッパ選手権優勝、1954年FIFAワールドカップ・スイス大会では全5試合に出場し2得点(1次リーグ、韓国戦、準々決勝ブラジル戦)を記録し準優勝に貢献した[2]

引退後は指導者の道へ進み、1965年から1967年までオリンピアコスFCでコーチを務めていたが[2]、その後はハンガリーへ帰国しヴィデオトンFCを始め、複数のクラブで監督を務めた[2]

脚注[編集]

  1. ^ MTKブダペストFCは以下のように名称変更を行った。
    1949-1951: ブダペスト・ティクスティレシュSE, 1951-1953: ブダペスト・バーシュトヤSE, 1953-1956: ブダペスト・ヴェレシュ・ロボゴーSE
  2. ^ a b c d e Lantos (Lendenmayer) Mihály (1928)”. Aranycsapat. 2012年2月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月15日閲覧。