モンテリマール

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Montélimar


行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏
(département) ドローム県
(arrondissement) ニヨン郡
小郡 (canton) モンテリマール小郡
INSEEコード 26198
郵便番号 26200
市長任期 フランク・レイニエ
2008年-2014年
自治体間連合 (fr) Communauté d'agglomération Montélimar-Sésame
人口動態
人口 35,988人
2007年
人口密度 769人/km2
住民の呼称 Montiliens / Montiliennes
地理
座標 北緯44度33分29秒 東経4度45分03秒 / 北緯44.55805556度 東経4.750833333度 / 44.55805556; 4.750833333座標: 北緯44度33分29秒 東経4度45分03秒 / 北緯44.55805556度 東経4.750833333度 / 44.55805556; 4.750833333
標高 平均:m
最低:56 m
最高:213 m
面積 46.81km2 (4 681ha)
Montélimarの位置(フランス内)
Montélimar
Montélimar
公式サイト Montélimar.fr
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モンテリマールフランス語:Montélimarオック語:Monteleimar)は、フランスオーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏ドローム県コミューン。別名で『プロヴァンスの入り口』(Portes de Provence)と呼ばれる。ハチミツとアーモンドで作ったヌガーが特産である。

地理[編集]

ローヌ川谷の中間にあり、ジャブロン川とルビオン川の合流地点に位置する。プロヴァンス地方への北側の入り口にあたるモンテリマールは、ドーフィネとプロヴァンスの生態系が混ざり合っている。

歴史[編集]

アデマール城
ローヌ川

モンテリマール地域での人の定住は非常に古くに行われた。一組の火打石からたどると、ムスティエ文化期である紀元前5000年頃となる。

ケルト人がやってくると、セゴウェラウネス族(Segovellaunes)の領土となった。このケルト人の都は、都市の2つの突端の上にあった。ジェリのオッピドゥムは、ジャブロン川とルビオン川の古い合流地点ではなく、ナルボンヌ沿岸の終点にあたった。西暦100年頃ローマの影響下に入ると、ジェリの地(ラテン語でDurio)は、現在のモンテリマール中心地にできた新しい町の恩恵を徐々に受けなくなっていった。町はその名を変えた。その町はAcunumと関係があり、ルビオン川に架かる橋のそばに宿場が設置されたことが、タブラ・ペウティンゲリアナ(古代ローマの街道を記した地図。13世紀復刻)でわかっている。アグリッパ街道は、都市の成長の青写真づくりを助けた。フォルム、バシリカ、公共浴場がそこにはあった。町には3本の水道で水が供給されていた。

民族大移動時代、町は2つに分割された。フォルム周辺にできた新たな町と、ルビオン川に架かる橋を守るナルボンヌおよびAcunumである。

その後数世紀、モンテリマールは次から次へと新たな支配者を迎えた(ブルグント王国フランク王国、ヴァランティノワ伯領、プロヴァンス王国)。

11世紀終わりから、アデマール一族がこの一帯の支配権を得た。モンテリマール初代領主ギヨーム・ユーグ・ダデマールは、第1回十字軍で教皇特使を務めたアデマール・ド・モンテイユの兄弟であった。この一族は13世紀までモンテリマールを治めた。12世紀、ナルボンヌの突端にアデマール家は邸宅を建てた。

1365年、モンテリマールの一部が共同統治者たるローマ教皇の保護下に入った。教皇は風格のある宮殿を改装し、城壁を修繕した。

1447年、ドーファンであるルイ王子(のちのルイ11世)がモンテリマール領主となった。

交通[編集]

姉妹都市[編集]

出身者[編集]