モザンビーク解放戦線
モザンビーク解放戦線 Frente de Libertação de Moçambique | |
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ロゴ | |
議長 | フィリペ・ニュシ |
第一書記 | ロケ・シルヴァ・サムエル |
成立年月日 | 1962年6月25日 |
本部所在地 | モザンビーク、マプート |
共和国議会 |
195 / 250 (78%) |
政治的思想・立場 |
現在: 中道左派 社会民主主義、民主社会主義 以前: 共産主義、マルクス・レーニン主義 |
シンボル | 現在の党章 |
国際組織 | 社会主義インターナショナル |
公式サイト | FRELIMO公式サイト |
モザンビーク解放戦線(モザンビークかいほうせんせん、葡: Frente de Libertação de Moçambique, FRELIMO)は、モザンビークの政党。結成時はポルトガル植民地支配に対してモザンビーク独立戦争を戦った武装抵抗組織だった。現在は社会主義インターナショナルに加盟している。
概要
[編集]1962年6月25日にエドゥアルド・モンドラーネによってタンザニア(当時はタンガニーカ)の首都ダルエスサラームにて、独立を目指す民族民主連合(NDU)、モザンビーク=アフリカ民族連合(ANUM)、独立モザンビーク=アフリカ連合(AUNM)の三組織を統一し、結成された[1]。
1964年9月25日に国土の北部で独立戦争を開始し、北部のマコンデ族と協調して国土の20%を支配下に置いた[2]。1969年2月にモンドラーネ議長が暗殺され、副議長を務めていた中道主義者のウリア・シマンゴを追放・逮捕(1975年に裁判なしで処刑)した後、議長にサモラ・マシェル、副議長にマルセリーノ・ドス・サントスが就任した。1970年から1971年には建設中のカボラ・バッサダムを攻撃した。1974年4月25日に宗主国のポルトガルでカーネーション革命が勃発した後、1974年9月にポルトガルの新政権とルサカ協定が結ばれ、和平が達成された[3]。
1975年6月25日にモザンビークが独立すると、FRELIMOは人民民主主義国家の政権党となったが、独立戦争の被害と植民地時代に経済の中枢にいたポルトガル系住民の出国、洪水などによって経済は大打撃を受けた[4]。また反共主義からローデシアの白人政権や、南アフリカ共和国のアパルトヘイト政権に支援されたモザンビーク民族抵抗運動(MNR/RENAMO)とのモザンビーク内戦に勝利することができず、国土は疲弊した。
1986年に初代大統領のマシェルが死亡した後、後を継いだジョアキン・アルベルト・シサノは1989年の党大会にてマルクス主義から距離を置くことを宣言し、翌1990年11月の憲法改正で複数政党制を認め、国名をそれまでのモザンビーク人民共和国からモザンビーク共和国に改めた[5]。また、1990年から1991年にかけての大規模な旱魃による飢饉の発生が、FRELIMO、RENAMO共に内戦の継続を困難にしたため、両者は1992年に包括和平協定を締結した[6]。その後も軍事的な対立は続いたが和解に向けた交渉も継続し、2019年8月1日にRENAMOとの和平協定に調印した[7]。
内戦終結後1994年、1998年に選挙が行われたが、共に僅差で勝利した[8]。以降も2022年現在まで一貫して与党の地位を保っている。
脚註
[編集]- ^ 星、林(1978:259)
- ^ 星、林(1978:259-260)
- ^ 星、林(1978:260)
- ^ 星、林(1978:260-262)
- ^ 岡倉(2001:292)
- ^ 舩田クラーセン(2008:661)
- ^ “モザンビークの政府と野党、歴史的な和平協定に調印”. AFPBB News. フランス通信社. (2019年8月2日) 2022年3月9日閲覧。
- ^ 岡倉(2001:292-293)
参考文献
[編集]- 岡倉登志『アフリカの歴史──侵略と抵抗の軌跡』明石書店、2001年1月。
- 舩田クラーセンさやか「紛争後モザンビーク社会の課題──村に戻らない人々」『朝倉世界地理講座──アフリカII』池谷和信、武内進一、佐藤廉也編、朝倉書店、2008年4月。
- 星昭、林晃史『世界現代史13──アフリカ現代史I 総説・南部アフリカ』山川出版社、1978年12月。