ムヌイム・ハーン

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ムヌイム・ハーン

ムヌイム・ハーン(Munim Khan, 生年不詳 - 1575年10月23日)は、北インドムガル帝国の武将・政治家。摂政でもある。ムニム・ハーンとも呼ばれる。ハーン・ハーナーンの称号を持つ人物でもある。

生涯[編集]

ムヌイム・ハーンとハーン・ザマーン

ムヌイム・ハーンはウズベク人ミーラーン・ベグ・アンディジャーニーの息子としてアンディジャーンで生まれた。

1555年6月、皇帝フマーユーンは長子アクバルを後継者とし、ムヌイム・ハーンをその後見人とした。ところが、バイラム・ハーンデリー奪還で多大な功績を上げたため、バイラム・ハーンが後見となり、代わりにムヌイム・ハーンはカーブルにいたアクバルの弟ミールザー・ハキームの後見人となった[1]

第二次パーニーパトの戦いののち、権力を恣にしていたバイラム・ハーンの失脚計画に加わり、アクバルの乳母マーハム・アナガの要請により、ムヌイム・ハーンはバイラム・ハーンがミールザー・ハキームを利用しないよう彼を連れてデリーに赴いた[2]

1560年3月、バイラム・ハーンが失脚すると、ムヌイム・ハーンが摂政となった[3][4]。だが、実際の権力はアクバルの乳母マーハム・アナガが握っており[5]、また宰相位はアトガ・ハーンがムヌイム・ハーンを差し置いて握っていた。

ムヌイム・ハーンは自分を差し置いてアトガ・ハーンが宰相となったことに不満を抱いており、マーハム・アナガの息子アドハム・ハーンにアトガ・ハーンの暗殺を唆した[4]。調子に乗りやすかったアドハム・ハーンはムヌイム・ハーンに唆され、彼自身もアトガ・ハーンが宰相であることが気にくわなかったため、その暗殺を計画した[4]

1562年5月、ムヌイム・ハーンに唆されたアドハム・ハーンは、アーグラ城の公謁殿でムヌイム・ハーンと会合をしていたアトガ・ハーンを短剣で刺し殺した[4]。だが、アドハム・ハーンはまもなくアクバルによって殺害され、そののちムヌイム・ハーンはアーグラから逃げたが捕えられた[6][7]。アクバルは彼を赦してその称号も回復させたが、その権力はすべて奪われて、単なる一武将に転落した[6][7]1564年にムヌイム・ハーンはジャウンプル太守となり、任地に赴いた。

1574年秋、ムヌイム・ハーンは総指揮としてベンガル・スルターン朝への遠征にあたったが、トーダル・マルが副将として作戦・軍律の指揮にあたった。また、ラシュカル・ハーンイティマード・ハーンも派遣され、監察の役割を果たした。同年9月25日、ムヌイム・ハーンはベンガル・スルターン朝の首都ターンダーを占領した[8][9]

1575年3月3日トゥカローイの戦いののち、その君主ダーウード・ハーン・カララーニーにはオリッサのみの統治権を認めさせる条約を締結させた。その後、ムヌイム・ハーンはターンダーからガウルへと移った。

同年10月23日、ムヌイム・ハーンは流行していたペストに感染して死亡した[8]。死後、ダーウード・ハーン・カララーニーによってガウルが奪われた。

脚注[編集]

  1. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.68
  2. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.79
  3. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.80
  4. ^ a b c d 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.152
  5. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.81
  6. ^ a b クロー『ムガル帝国の興亡』、p.84
  7. ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.47
  8. ^ a b AKM Yaqub Husain, Munim Khan, Banglapedia: The National Encyclopedia of Bangladesh, Asiatic Society of Bangladesh, Dhaka, Retrieved: 2011-05-10
  9. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.92

参考文献[編集]

  • アンドレ・クロー、杉村裕史訳 『ムガル帝国の興亡』 法政大学出版局、2001年。 
  • 小谷汪之 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年。 
  • 石田保昭 『ユーラシア文化叢書<2> ムガル帝国』 吉川弘文館、1965年。 

関連項目[編集]