ムスタファ1世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
ムスタファ1世
オスマン帝国第15代皇帝
Mustafa I by John Young.jpg
在位 1617年11月22日 - 1618年2月26日
1622年5月10日 - 1623年9月10日

出生 1592年
死去 1639年1月20日
家名 オスマン家
王朝 オスマン朝
父親 メフメト3世
母親 ハリメ・スルタン
テンプレートを表示

ムスタファ1世(Mustafa I, 1592年 - 1639年1月20日)は、オスマン帝国の第15代皇帝(在位:1617年11月22日 - 1618年2月26日1622年5月10日 - 1623年9月10日)。メフメト3世の子でアフメト1世の弟。

生涯[編集]

即位前[編集]

1592年、メフメト3世とその夫人のハリメ・スルタンとの間に生まれた。1603年に父が死去すると兄のアフメト1世が後を継いだ。本来なら兄弟殺しの伝統でムスタファは殺されるかもしれなかったが、幽閉されるにとどまった。幽閉中、母のハリメや祖母のサフィエ・スルタンと会うこともあった。 兄の治世中、1603年から1617年の14年もの長い間幽閉された。その理由として兄のアフメト1世に、もしものことがあった時に備えることなどであった。これ以降、現スルタンが死去、あるいは退位したさいは、現存する王族のうち、最年長の者がスルタンを継ぐのが慣例となった。アフメト1世が即位した翌年にはオスマン皇子が生まれ、さらにその次の年にはメフメト皇子が生まれたが、ムスタファが「用済み」として改めて処刑されることはなかった。恐らくは、ムスタファが精神的な問題を抱えていたためなのと、父のメフメト3世が即位した時の19人の兄弟を殺害したことが人々の悲観を招き、兄弟殺しが避けられた一因だった。イスタンブールの世論はすでに政治家たちが無視できない要素となっていたのである。

1612年、ムスタファは殺されそうになるが、アフメト1世の妻のキョセム・スルタンの取りなしによって助かった。キョセムにはメフメト皇子という息子がおり、ここで兄弟殺しの伝統が復活した場合将来メフメト皇子が兄のオスマンの即位時に殺される可能性があったためである。

即位と廃位[編集]

1617年に兄のアフメト1世が死去した。この時のイスラム長老のエサト・エフェンディと大宰相代理のソフ・メフメト・パシャら宮廷派閥はアフメトの息子ではなくムスタファを推したため即位した。特にソフ・メフメト・パシャらはオスマン皇子は若すぎると主張したためであった。ムスタファの即位に唯一反対したのが黒人宦官のムスタファ・アガのみでムスタファ皇子の精神的な問題を理由にオスマン皇子を推薦した。

ムスタファは即位後、母のハリメ・スルタンが母后として権力をふるった。兄弟間での王位継承はこれが初めてであった。ムスタファ1世の精神病は外の世界と接触することで改善が期待されたが全くの期待外れであった。彼は大宰相の髭やターバンを引っ張ったりするなどした。当時の史家のイブラヒム・ペチェビは「このような状況は国民に見られており、心理的に混乱していることを見破られていた。」と記録している。

翌1618年、精神病のために在位3ヶ月で退位させられることとなった。次に即位した甥のオスマン2世が殺害されたため1622年に再び皇帝となるが、精神状態は相変わらず改善されず、依然としてハリメ・スルタンが実権を握っていた。まもなく2度目の退位を強制され、1623年にオスマン2世の弟ムラト4世が即位した。

死去[編集]

47歳で死去するまで16年間の幽閉生活を送らされた。ムスタファの治世は短期間であったが、王位継承の慣例を破るという意味では画期的であった。

人物[編集]

女が自らの視界に入ることすら忌み嫌うほど極端に嫌悪していて、女を一切自分の側へ寄せつけることはなかったため、皇子女は一人も残していない。また、ポケットに入れた金貨銀貨を振り撒くという奇行をしていた。

ムスタファ1世