メフメト1世

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メフメト1世
چلبی محمد
Çelebi Mehmet.jpg
メフメト1世
在位 1413年 - 1421年
戴冠 1413年7月10日
死去 1421年5月26日
子女 ムラト、ムスタファなど
王家 オスマン家
王朝 オスマン朝
父親 バヤズィト1世
サイン Tughra of Mehmed I.JPG
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メフメト1世(Mehmed I もしくは Mehmed Çelebi、? - 1421年5月26日)は、オスマン帝国の第5代皇帝スルターン)(在位: 1413年-1421年)。第4代皇帝バヤズィト1世の子。「典雅王(チェレビー)」の別名で知られる[1]。分裂した帝国を再統一し、短い治世の中で国家の再建に注力した皇帝として評価されている[2][3]

生涯[編集]

アンカラの戦い以前[編集]

バヤズィト1世の子として生まれる。

父バヤズィト1世の存命中には、アマスィヤの知事を務めた[4]1402年アンカラの戦いで、父のバヤズィト1世がティムールに敗れて捕虜となる。この時メフメトもバヤズィトに従軍していたが、トルコ人兵たちに助けられて無事に戦場を脱出することができた[5][6]

アンカラの戦いの後、メフメトは自身の任地であるアマスィアを拠点とした。ティムールの軍はアナトリアに長くは留まらず、エーゲ海沿岸部に到達した後に撤退したが[4]、かつてオスマン帝国に併合されたベイリク(君侯国)がティムールによって再興され、アナトリアのオスマン帝国の領土は祖父ムラト1世以前の規模に縮小していた[5]。また、メフメトの3人の兄弟が、以下の地に拠ってそれぞれ帝位を主張していた。

足かけ11年にわたる、オスマン帝室の兄弟間で君主の地位を巡る闘争が起きたこの時代は、「空位時代」(もしくは「危機時代」)と呼ばれる[7]

空位時代[編集]

メフメトのライバルの一人ムーサー

スレイマンが譲歩と引き換えにビザンツ帝国(東ローマ帝国)皇帝マヌエル2世らバルカン半島のキリスト教国の君主と同盟したのに対し、 メフメトらアナトリアを拠点とする王子はオスマン帝国のガーズィー(異教徒と戦う信仰の戦士)の伝統を掲げて、大義名分とした[8]。メフメトはイーサーを攻撃してブルサ、イズニクを奪取し、彼をコンスタンティノープルに放逐した[9][10]。長兄のスレイマンはメフメトを牽制するため、1404年にイサに軍を提供してアナトリアに派遣するが、メフメトは2度の戦いでイーサーに勝利を収める[11]。1404年頃にイーサーの消息は途絶えて[注 1]、彼が率いていた軍はメフメトに吸収された[10][11]。イーサーの派遣と同時にスレイマンは1404年にバルカン半島からアジア側に進攻[10]、ブルサやマルマラ海沿岸部の都市を占領し[4]、後継者争いにおいて当初はスレイマンが優位に立っていた[12]。メフメトはオスマン帝国のライバルであるカラマン侯国英語版と同盟し、スレイマンからの攻撃を抑えた[10]

メフメトはティムールによって復興されたアイドゥン侯国サルハン侯国テケ侯国メンテシェ侯国を破り、再び宗主権を認めさせる[4][12]1409年、スレイマンを挟撃するため、メフメトは弟ムーサーをバルカン半島に派遣した[10]。ムーサーはセルビアワラキアと同盟し、ワラキア、セルビア、ブルガリア[11]から成るバルカン諸国の軍勢を率いてエディルネのスレイマンを攻撃した[10]。ムーサーの進攻を知ったスレイマンがアナトリアからヨーロッパに軍を返したため、メフメトはスレイマンが有していたアナトリア西部を制圧することができた[11]1411年2月にスレイマンはコンスタンティノープルへの逃走中に戦死、勝利したムーサーは貨幣に自らの名を刻んで君主を称し、スレイマンがバルカン諸国に返還した領土を奪い返した[13]。ムーサーはイラン出身のスーフィー(イスラームの神秘主義者)・シェイフ・ベドレッディン[注 2]をカザスケル(大法官)に起用するが、ベドレッディンの主張する財産の共有化とハレムを除く私有財産の廃止を唱える共産主義にも類似する思想は、貴族、富裕層、イスラム神学者からの猛反発を受けた[14][15]。ベドレッディンは異端と宣告され、彼を保護するムーサーも不利な立場に立たされる[14]。メフメトはビザンツ皇帝マヌエル2世[16]、セルビア公ステファン・ラザレヴィチ英語版と同盟し[12]、1413年7月10日[14]チャムルルの戦い英語版[注 3]でムーサーを捕殺した[17]

帝国の再統一が達成されると、メフメトはこれまで名乗っていたチェレビィ(王子)やエミールの称号に代えて、正式にスルターンを称した[2]

再統一後[編集]

メフメトはムーサーに勝利した経緯からビザンツ帝国に対して治世を通して友好的な態度を取り、メフメトの在位中ビザンツ帝国には束の間の平和が訪れる [18]。ヨーロッパ側での混乱を収拾したメフメトは、外敵の攻撃と内乱で混乱するアナトリアに帰還した。アナトリアではカラマン侯国が協定を破棄してオスマン領内に侵入し、かつてのムーサーの将校ジュネイトがイズミルを拠点として反乱を起こしていた[17]。イズミル攻撃、2度にわたるコンヤ[注 4]包囲を経て、1416年にカラマンを降伏させ、ジュネイトをイズミルから追放した[17]。コンヤ包囲の後、アクシェヒル英語版スィヴリヒサル英語版ベイシェヒル英語版セイディシェヒル英語版をカラマンから奪回する[1]

また、同1416年にはゲリボルでオスマン海軍とヴェネツィア共和国の艦隊との間に戦闘が起きる。オスマン海軍は決定的な戦果を挙げられなかったものの、司令官が戦闘で負傷したヴェネツィア艦隊はテネドス島英語版(ボズジャアダ島)に撤退した[1]。オスマン、ヴェネツィアの間に捕虜の交換を条件とした講和が成立し[1]、オスマンはダーダネルス海峡の制海権を回復する[2]。また、メフメトは関係が悪化したハンガリーの攻撃に備えてハンガリーとの国境、ボスニア方面に城砦を築くが[17]ドナウ川向こうの北部に領土が拡大されるのは、次代のムラト2世以降のことである[2]

3つの反乱[編集]

ブルサのメフメト1世の霊廟

1418年から1420年にかけて[19]、アナトリアとバルカン半島のオスマン領で宗教反乱が起きる。エーゲ海沿岸部のカラブルン半島英語版でトルコ人イスラム教徒ベルクリュセ・ムスタファとユダヤ人ラビ・トルラクらが、かつてムーサーの保護を受けていたシェイフ・ベドレッディンの思想に共鳴して反乱を起こし、彼らはイスラム教、キリスト教ユダヤ教の統合を主張していた[20]。当のシェイフ・ベドレッディンは、メフメトの即位後にイズニクに送られていたが、ムスタファらが反乱を起こした後にイズニクから脱走し、ワラキアのデリオルマンに移動した[15][21]。ワラキア公子ミハイル英語版の支援を受けたベドレッディンは、デリオルマンで反乱を起こし、メフメトによってバルカン半島に強制移住させられたテュルク系の遊牧民らも反乱に参加した[22]。カラブルン半島での反乱は息子のムラトによって鎮圧され、ベドレッディンは大宰相のバヤズィト・パシャによって捕らえられ、処刑された[19][21]。メフメトは自分の兄弟であるムスタファを名乗る人物の討伐に向かう[23]

1419年にバヤズィト1世の王子ムスタファ[24]を名乗る反乱者(偽ムスタファ)が現れ、ジュネイトが偽ムスタファの元に合流する[17]。メフメトは両者を破り、偽ムスタファはコンスタンティノープルに亡命した。偽ムスタファの亡命先であるビザンツ帝国に対しては、オスマン側が毎年一定額の費用を支払うことを条件に、ムスタファを監視下に置く取り決めがなされた[21]

1421年5月26日にメフメトは没し、息子のムラトがブルサに入城して即位するまで彼の死は秘匿された[17]

政策[編集]

メフメト1世と高官たち

メフメト1世の治世は、オスマン宮廷内でトルコ人貴族が権勢をふるった最後の時代とされている[25]。メフメトは即位後、人種と宗教が入り乱れる国内の諸勢力から、チャンダルル家を代表とするトルコ系の有力者を優遇した[16]。一方、バヤズィト1世に仕官していたキリスト教徒は宮廷から追放され[16]デヴシルメによって徴用されたイェニチェリの拡張は行われなかった[25]

メフメト1世の治世では帝国内でのダルヴィーシュスーフィーの修道僧)の影響力が低下し、スンナ派の影響力が徐々に高まっていった[2]

年表[編集]

肖像画[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ イーサーはエスキシェヒル滞在中、メフメトの部下によって殺害された説も確認される。(アクシト『トルコ 2』、61頁)
  2. ^ シェイフ・ベドレッディンの事績と思想の概要については、今松泰「シェイフ・ベドレッティン・スィマーヴィー」『岩波イスラーム辞典』、429頁(岩波書店, 2002年2月)と小山皓一郎「シェイフ・ベドレッディンの乱」『新イスラム事典』、253頁を参照。
  3. ^ チャムルルは、ブルガリアの地名。現在のブルガリアの首都ソフィアの南方に位置する。
  4. ^ カラマン侯国の首都。

出典[編集]

  1. ^ a b c d アクシト『トルコ 2』、62頁
  2. ^ a b c d e 三橋『トルコの歴史』、135頁
  3. ^ マントラン『改訳 トルコ史』、52-53頁
  4. ^ a b c d マントラン『改訳 トルコ史』、51頁
  5. ^ a b マントラン『改訳 トルコ史』、49頁
  6. ^ クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、82頁
  7. ^ アクシト『トルコ 2』、61頁
  8. ^ 新井『オスマンvsヨーロッパ 「トルコの脅威」とは何だったのか』、86頁
  9. ^ 三橋『トルコの歴史』、133頁
  10. ^ a b c d e f 新井『オスマンvsヨーロッパ 「トルコの脅威」とは何だったのか』、87頁
  11. ^ a b c d クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、86頁
  12. ^ a b c 三橋『トルコの歴史』、134頁
  13. ^ 新井『オスマンvsヨーロッパ 「トルコの脅威」とは何だったのか』、87-88頁
  14. ^ a b c クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、87頁
  15. ^ a b 今松「シェイフ・ベドレッティン・スィマーヴィー」『岩波イスラーム辞典』収録
  16. ^ a b c 新井『オスマンvsヨーロッパ 「トルコの脅威」とは何だったのか』、88頁
  17. ^ a b c d e f マントラン『改訳 トルコ史』、52頁
  18. ^ 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』(東海大学出版会, 1999年2月)、860頁
  19. ^ a b 小山「シェイフ・ベドレッディンの乱」『新イスラム事典』収録
  20. ^ クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、89頁
  21. ^ a b c アクシト『トルコ 2』、63頁
  22. ^ クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、88-89頁
  23. ^ クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、89-90頁
  24. ^ 王子ムスタファはアンカラの戦いに従軍し、捕虜になったと考えられている。しかし、帰国を許されたムーサーと異なり、ムスタファはアンカラの戦い後に消息を絶っている。1419年にスルターンの地位を要求して挙兵した反乱者は一般に「偽ムスタファ」と呼ばれている。(新井『オスマンvsヨーロッパ 「トルコの脅威」とは何だったのか』、88頁)
  25. ^ a b クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』、88頁

参考文献[編集]

  • 新井政美『オスマンvsヨーロッパ 「トルコの脅威」とは何だったのか』(講談社選書メチエ, 講談社, 2002年4月)
  • 今松泰「シェイフ・ベドレッティン・スィマーヴィー」『岩波イスラーム辞典』、429頁(岩波書店, 2002年2月)
  • 小山皓一郎「シェイフ・ベドレッディンの乱」『新イスラム事典』、253頁(平凡社, 2002年3月)
  • 三橋冨治男『トルコの歴史』(世界史研究双書, 近藤出版社, 1990年12月)
  • N.アクシト『トルコ 2』(永田雄三編訳, 世界の教科書=歴史, ほるぷ出版, 1981年11月)
  • ウルリッヒ・クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』(戸叶勝也訳, アリアドネ企画, 1998年6月)
  • ロベール・マントラン『改訳 トルコ史』(小山皓一郎訳, 文庫クセジュ, 白水社, 1982年7月)

関連項目[編集]