フランス・オスマン同盟

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フランシスコ1世(左)とスレイマン1世(右)はオスマン・フランコ同盟を結んだ。ティツィアーノ・ヴェチェッリオが1530年頃に描いた2枚の絵を合成したもの。

フランス・オスマン同盟(The Franco-Ottoman alliance, またの名を仏土同盟 (the Franco-Turkish alliance)[1])は1536年神聖ローマ帝国に対抗するため、ヴァロワ朝フランス国王フランソワ1世とオスマン帝国スルタンスレイマン1世の間で結ばれた同盟である。

この同盟を締結した為、オスマン帝国はフランスに通商・居住の自由、租税免除、身体・財産・企業の安全などを保障[要出典]するカピチュレーションを認めた。

しかし正確にはフランス使節がオスマン帝国大宰相と合意した条約案であるとされているが[要出典]、この同盟を結んでカピチュレーションを認めたことによって、フランス以外の諸外国からもカピチュレーションを要求され、オスマン帝国の衰退を招くこととなった[2]

背景[編集]

1525年パヴィアの戦いの後の西ヨーロッパ。黄色の領土はシャルルが統治。赤の境界線内は神聖ローマ帝国の領土で、シャルルが部分的に支配していた。フランスは西側で圧力を受け、オスマン帝国は神聖ローマ帝国の東側で拡大した。
オスマン帝国の王子ジェム・スルタンとピエール・ドービュッソン、ブルガヌフにて、1483-1489年

フランスとオスマン帝国が同盟を結んだ原因[編集]

16世紀初頭、フランスのフランソワ1世はイタリアの支配権を巡ってハプスブルク家率いる神聖ローマ帝国のカール5世[注 1]と対立を深めていた。しかし1525年にはパヴィアの戦いで大敗を喫してしまいフランソワ1世が捕虜にされるなどして悩んだ末、神聖ローマ帝国の東に位置するオスマン帝国と共に神聖ローマ帝国を挟み撃ちにするべきだと考え、同盟締結に至った[3]

オスマン帝国はカール5世率いる神聖ローマ帝国およびスペイン王国に対抗するためこの同盟締結に至った。

イタリア戦争の終結[編集]

そして1494年からイタリアの支配権を巡って神聖ローマ帝国とフランス・オスマン帝国側に分かれて、ヴェネツィア共和国西ヨーロッパのほとんどの国(イングランドスコットランド)などが戦ったイタリア戦争カトー・カンブレジ条約で終わりを告げた[4][5]

カトー・カンブレジ条約の内容[編集]

フランスはイタリアへの権利を放棄した。戦争に中立であったジェノヴァ共和国コルシカ島にフランス・オスマン軍が占領していたのを返還させた。

そしてミラノナポリシチリアサルデーニャトスカーナ西南岸がハプスブルク家の統治下となった。代わりにフランスはロレーヌを譲り受けた。ロレーヌにはカルヴァンの生地ノワイヨンが含まれた。

イングランドフランスカレーを返還し、両国国境はドーバー海峡で確定した。

また、フィレンツェ公国[注 2]メディチ家シエーナ共和国を獲得した[6]

メディチ家が登場する背景は締結後、数世紀の世界情勢まで決定してしまった[7]

ルクセンブルク家のドイツ・イタリア政策がメディチ家台頭へつながって、このスペイン・ドイツ・イタリア連合がイタリア戦争と宗教改革を並行させていた。1555年アウクスブルクの和議カルヴァン派が否定された。翌年、カルヴァン派市民のいるネーデルラントがスペイン領となった。そして1559年にカトー・カンブレジ条約が成った。ほどなく、フランス内でカトリーヌ・ド・メディチユグノー戦争の主因となった[8]

1559年の和平を機会にフランス王女マルグリットと結婚したサヴォイア家エマヌエーレ・フィリベルトは、7人の有力市民にコンパーニア・ディ・サンパオロという銀行をつくらせた。この銀行は対抗宗教改革を目的に設立され、1653年には息子カルロ・エマヌエーレ1世の庇護を受けてモンテ・ディ・ピエタをつくった。ハンブローズ銀行(現ソシエテ・ジェネラル)の会長だったチャールズ男爵が重役に入って、もう一つの宗教事業協会と呼ばれながら現代も活躍している[要出典]

フランソワ1世とスレイマンの同盟[編集]

1526年に、スレイマン1世からフランソワ1世に初めて送られた手紙。

Military alliance under Henry II[編集]

1551-1559年のイタリア戦争における協力[編集]

シャルル9世のプロテスタント支持[編集]

継続[編集]

ルイ15世による革命支援の継続[編集]

エピローグ: ナポレオン1世[編集]

クリミア戦争とシリア[編集]

ボーフォール・ドートプール将軍率いるフランスのシリア遠征隊は、1860年8月16日にベイルートに上陸

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ カール5世は1519年に神聖ローマ皇帝に即位するが、それ以前の1516年にはスペイン王に即位しており、スペイン王としてはカルロス1世スペイン語: Carlos I de España)と呼ばれる。このためフランスにしてみれば「カール5世がその気になれば、東の神聖ローマ帝国(ドイツ)と西のスペインから、いつでもフランスを挟み撃ちにできる」状況になっていた。
  2. ^ 条約調印後の1569年に、フィレンツェ公コジモ1世ローマ教皇ピウス5世よりトスカーナ大公の称号を授与され、トスカーナ大公国となる。

出典[編集]

  1. ^ 例えば(武田元有「十八世紀前半におけるバルト海貿易とロシア南下政策 : 1734年英露通商条約の経済的・政治的意義」『鳥取大学大学教育総合センター紀要』第1巻、鳥取大学大学教育総合センター、2004年12月、7-68頁、CRID 1050859779481526784ISSN 13499076 )等
  2. ^ Dimmock, Matthew; Dimmock, Professor of Early Modern Studies Matthew (January 4, 2005). New Turkes: Dramatizing Islam and the Ottomans in Early Modern England. Ashgate. ISBN 9780754650225. https://books.google.com/books?id=Dx0BFlJd3lIC&pg=PA49 
  3. ^ Commynes (1856年1月4日). “The Memoirs of Philip de Commines, Lord of Argenton: Containing the Histories of Louis XI. and Charles VIII. Kings of France and of Charles the Bold, Duke of Burgundy: To which is Added, The Scandalous Chronicle, Or Secret History of Louis XI.”. G. Bell and sons. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  4. ^ White (1846年1月4日). “Three Years in Constantinople: Or, Domestic Manners of the Turks in 1844”. H. Colburn. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  5. ^ White (1846年1月4日). “Three Years in Constantinople: Or, Domestic Manners of the Turks in 1844”. H. Colburn. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  6. ^ Setton, Kenneth Meyer (January 4, 1976). The Papacy and the Levant, 1204-1571. American Philosophical Society. ISBN 9780871691613. https://books.google.com/books?id=EgQNAAAAIAAJ&pg=PA312 
  7. ^ The Cambridge History of Poland. CUP Archive. ISBN 9781001288024. https://books.google.com/books?id=N883AAAAIAAJ&pg=RA1-PA309 
  8. ^ Merriman, Roger Bigelow (March 4, 2007). Suleiman the Magnificent 1520-1566. Read Books. ISBN 9781406772722. https://books.google.com/books?id=AkMHta3C7LUC&pg=PA129 

参考文献[編集]

関連項目[編集]