ノート:桜井誠 (活動家)/過去ログ1

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4月20日ブログの発言について[編集]

私が記載したのは桜井氏ご本人自らブログにされた発言ですし、ソースもしっかりしています。『竹島は日本』氏はまずこのことを念頭に置かれて編集されるようお願いします。

支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質という文言は桜井氏本人が4月20日付けのブログでも再三おっしゃられていましたし、失言の類ではなく桜井氏がそのような考えを持っていらっしゃることは事実と考えられるので記載いたしました。

最後にこの支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質という桜井氏の主張に『竹島は日本』氏が賛同されるのか否かお尋ねしたいです。ご存知と思いますがとある文化・国民を本質主義的に侮蔑し、優越感を持つのは一般にレイシズムエスノセントリズムと呼ばれるものですし、まして韓国人・朝鮮人、中国人が一般に血も涙もない人々だとあからさまに述べている訳ですから間違いなくこの発言はレイシズムに該当すると思います。__222.225.224.104

「リベラル派ブロガーから批判を浴びている」に出展がありませんが、いいのでしょうか。つまり、批判が単なる個人間にとどまらず有る程度の共通認識となっていることと、その認識を持つ範囲がリベラル派であることと、その二つのこと、とくに後者を示す必要があるのですが、その点は大丈夫なのでしょうか。(こういう発言に反対する=リベラル派という誤解が一部であるようです)
ほかの投稿でも、客観的事実として書ける部分と、出展を示す必要がある研究部分とが峻別されていないように見受けられます。くどいようですが、「俺がこう思う」だけでは除去されても文句は言えません。竹島は日本氏のように、一部でも問題があれば全体を除去するものぐさな人もそれなりにおられますので、記述は慎重にされることをお薦めします。また、否定的な表現へのリンクが何の説明もなしでおかれるのも、根拠が示されなければレッテル貼り攻撃と見なされえますので、疑義が出されたら最初にノートで説明するべきです。--Yhiroyuki 2007年5月4日 (金) 04:32 (UTC)

Yhiroyukiさんと同意見です。ソースがありません。そのため、除去しています。 >…また、否定的な表現へのリンクが何の説明もなしでおかれるのも、根拠が示されなければレッテル貼り攻撃と見なされえますので… 私はレッテル貼り攻撃と判断いたしました。 というか、編集合戦気味になってきました。保護か半保護依頼しても良いですか?--竹島は日本 2007年5月4日 (金) 05:24 (UTC)

私の言っていることがご理解出来なかったようなのでもう一度繰り返しますが 支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質という文言は桜井氏本人が4月20日付けのブログでも再三おっしゃられていましたし、失言の類ではなく桜井氏がそのような考えを持っていらっしゃることは事実と考えられるので記載いたしました。このことについてはソースもありますし宜しいですね?

>>竹島は日本氏のように、一部でも問題があれば全体を除去するものぐさな人もそれなりにおられますので、記述は慎重にされることをお薦めします。

竹島は日本氏は上記の桜井氏が確かに発言したというソースつきのものまで削除しています。それに対して私のみを批判されるのは侵害です。とりあえず内容は戻させていただきます。__222.225.224.104

Yhiroyukiさんは「竹島は日本」さんの編集を支持しているのではなく、222.225.224.104さんの編集で問題である部分を指摘しているのだと思います。222.225.224.104さんはこの指摘をきちんと受けとめるべきでしょう。それと、「~~~~」を文末に添えれば、自動的に時間付きの署名が生成されますので、署名はそれで御願いします。 -- NiKe 2007年5月4日 (金) 06:05 (UTC)

NiKe様のご指摘有難うございます、私も少し冷静さを欠いていたようです。 さて >こういう発言に反対する=リベラル派という誤解が一部であるようです

ひとまず容易に合意できそうな所から始めます。

桜井氏が2007年4月20日の日記で再三おっしゃられた(繰り返しますがソースはちゃんとあります。)支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質という発言は、"民族的特質”などの用語を用いて対象が本質的に劣っていると批判されているので、明らかにレイシズム・エスノセントリズムと考えられます。私個人の主観にとどまらず、レイシズムやエスノセントリズムの項目に於ける定義を見れば明らかだと考えますし、これは特に議論する必要もないと考えます。

そしてこのようなレイシズム的な発言に反対することは、少なくとも其れに限ればリベラル派の原理に基づくものと考えて差し支えないと思います。リベラル派は近代的人権意識に基づきこのようなレイシズム・民族差別、エスノセントリズムを批判する立場ですので。ただ確かに一貫してリベラルの立場に立っているのかどうか確認できないという貴君の指摘もごもっともですので、それならば『レイシズムやエスノセントリズムを批判する立場に立ってこの発言を批判する人もいる。』とするべきだと思います。

最後に、もう一度桜井氏の2007年4月20日付けのブログから引用させていただきますが、彼の『この事例に限らず人間と獣の間には価値観の共有などありえるわけなが(ママ)なく、今回の悲劇的な事件を教訓に、日本を含む人類普遍的な価値観と「人の命に価値観を持たない」支那(ママ)や朝鮮の価値観は決して相容れるものではないことを私たちは認識しなければなりません。』という発言、これは上の『支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質』という発言と併せて明らかに日本人=本質的に道徳的優位の文化、韓国朝鮮人・中国人=本質的に道徳的劣位に立つ文化ということを述べておいでです、これは明らかにレイシズムだと考えますし、桜井氏がこの手のことを何度も述べていらっしゃるのは失言の類ではなく、彼の思想を知る上で重要な情報であると考えますので記載すべきだと思います。~~~~

『竹島は日本』氏、適切な編集有難うございます。細かいことですが、付け加えるならば、

>『韓国人の犯行は確かに個別の事件として取り扱われるべきでしょうが、しかしその内容を鑑みるに支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質を考える必要がある』という発言を行い、「まるで朝鮮人・中国人が本質的に非倫理的な文化を持っていると主張しているように聞こえる。」という批判を受けたことがある。

発言内容からして「主張しているように聞こえる。」というよりも、氏ははっきりとそのような事を主張していらっしゃるとしか取れません。まさか桜井氏が「人の命に価値観を持たない」事を是としていらっしゃる訳ではないでしょうし、そうである以上これは明白に「朝鮮人・中国人は本質的に非倫理的文化を持っている。」と述べていると捉えられますので、そのように記すのが適切と思います。~~~~

これはどちらの編集も問題があります。「朝鮮人・中国人は本質的に非倫理的文化を持っている。」では、桜井氏の主張に直接ない要素が付け足されおり、独自の研究(「Wikipedia:独自研究は載せない」を参照)になるので駄目です。(価値観が異なるから、付き合うべきでないというのがこの主張の本質ですが、Wikipediaでそこまで解説する必要はないでしょう)竹島は日本氏の編集はもっと駄目です。執筆者の意見を、「~という批判を受けたことがある。」と捏造してしまっているからです。単純に「~という発言をおこなった。」と書き読者に判断を委ねるか、批判しているブログから引用してくるかです。(ネット右翼という用語を使うところは、ほぼ間違いなく低レベルなのでそれ以外から) 「レイシズム発言と見なせる」(「人の命に価値観を持たない」を民族的特質と言い切ってしまったところがレイシズムに当たる)と記述しちゃうのも有りですが、桜井氏の主張にも事実の部分が含まれていますので、慎重に行ってください。全否定するとほぼ間違いなくレッテル貼り攻撃と見なされます。
あと、リベラル派について誤解があるようですが、保守論者でも革新論者でも、リベラル論者でもリバタリアニズム論者でも、共産主義論者でも反共主義論者でも、こういったレイシズムには反対するのが大多数です。ついでにいうと、反韓でも嫌韓でも親韓でもです。ようするに、主義・思想とレイシズムは無関係に両立しうると言うことです。やろうと思えば、リベラル論者によるリベラル論補強の為のレイシズム発言リストもつくれます。(署名にnowikiタグをいれちゃ駄目ですよ)--Yhiroyuki 2007年5月4日 (金) 07:59 (UTC)

どうも議論にお付き合い頂いて有難うございます、さて

>桜井氏の主張にも事実の部分が含まれていますので

今私は桜井氏の『韓国人の犯行は確かに個別の事件として取り扱われるべきでしょうが、しかしその内容を鑑みるに支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質を考える必要がある』という発言について議論していますが、それに対する返答の中にこのような語句が含まれるのであれば、『支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質』という桜井氏の発言に事実の部分が含まれていると貴方が主張しているかのようにもみえてしまいますが、まさかそういうことでしょうか?それと、

>「人の命に価値観を持たない」を民族的特質と言い切ってしまったところがレイシズムに当たる

やはりはっきりこう言い切るべきですし、それ以外の解釈はこの場合考えられないでしょう。。『「朝鮮人・中国人は本質的に非倫理的文化を持っている。」では、桜井氏の主張に直接ない要素が付け足されおり』とおっしゃられていますが、桜井氏は明らかに非倫理的であるとの趣旨で「人の命に価値観を持たない」と言及されています。


>ネット右翼という用語を使うところは、ほぼ間違いなく低レベルなのでそれ以外から

『ほぼ間違いなく』というのは根拠のない個人的偏見ですよ。それとも貴方がその『ネット右翼』という集合に入るとお考えになる、またはそう言われたのでしょうか?

リベラル派についての議論はひとまず置いておきますが、現在の『嫌韓』・『嫌中』派が中国人・朝鮮人へのレイシズムをかなりの程度持っており、大日本帝国を美化しているというのはいちいちここで厳格な証拠を挙げなくともそちらも理解しておいでではないでしょうか?無論あなたが植民地統治肯定論者、亜細亜・太平洋戦争肯定論者でしたらこのような言い方は不適切ですしお詫び申し上げますが。

最後に念のためお聞きしたいのですが(失礼と感じられたらお許しください。)、貴方は桜井氏の、 『支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質』という 主張に対して賛同されますか、それともされませんか?222.225.224.104 2007年5月4日 (金) 08:34 (UTC)222.225.224.104

その主張には賛同しません。これが回答です。
事実というのは価値観が異なるということと、「人の命に価値観を持たない」が歴史としてあったということです。ただし、前者は通常民主主義について言われることであり、後者は過去の社会制度や環境に由来するものなので現在のかつ民族の特性として語る意味はありません。価値観が異なるという主張にまで踏み込んで、レイシズム扱いしちゃけないということです。どんな場合でも批判は慎重にしてしすぎることはありません。
ネット右翼という言葉は定義があいまいであり、しばしばレッテル貼りとして使われる用語です。すくなくともまともな論客なら、このようなあいまいな言葉は使わないか、もし、つかう場合は、ネット用語とは異なる意味で厳密な定義を与えているはずです。その場合は問題ない思います。(2ch的なノリのブログから引用されても意味がないということです)
竹島は日本氏はこれ以上の譲歩は多分されないでしょから、コメント依頼に出してみてはどうでしょうか。Yhiroyuki 2007年5月4日 (金) 09:01 (UTC)
コメント依頼の争点は、批判文の書き方(批判を引用でなしに地の文として書くことの是非と、「非倫理的である」はWikipediaで禁止している独自の研究にあたるかどうか)で、よろしいでしょうか。Yhiroyuki 2007年5月4日 (金) 09:08 (UTC)

まずはYhiroyuki氏への質問です。

>事実というのは価値観が異なるということと、「人の命に価値観を持たない」が歴史としてあったということです

価値観が異なるのは社会も違うから当然ですし、そんな事をレイシズム扱いはしていません。そして後段の『「人の命に価値観を持たない」が歴史としてあった』というご発言、これは桜井氏の主張される『支那(ママ)・朝鮮にのみそのような歴史があった』ということを認めているのでしょうか、それともどの国にもそのような非人道的一面は歴史としてあったのだという御趣旨でしょうか?

次に、ご提示の論点ですが、

>「非倫理的である」はWikipediaで禁止している独自の研究にあたるかどうか

これに関しての個人的見解は、同日のブログで桜井氏がバージニア工科大学での惨劇について、彼の主張する所の『支那(ママ)・朝鮮の人の命に価値を持たない価値観』こそ事件の遠因であるとし、これまた彼の言う所の『日本を含めた普遍的な価値観』と対置させ、批判していますので、彼が対象の国家とその文化を非倫理的であるであると主張しているのは明らかに事実であり、独自の研究ではないと考えられます。少なくとも桜井氏が『人の命に価値を持たないのは悪ではない。』と明言されない限り、ここは『人の命をそもそも大事と思っていない支那(ママ)・朝鮮の価値観』を非倫理的であるとして、『普遍的価値観』(桜井氏は日本をこの中に含めています。)と対比させていると結論付けるべきだと考えます。

>批判を引用でなしに地の文として書くことの是非 批判というよりも、『レイシズムである』ということを、即ちその定義に当てはまるということを認定すべきだということです。誤解されているようですが、レイシズムといった所で、本文中でそれをもって悪であると述べなければそれは批判ではなく、単なる事実認定に過ぎません。222.225.224.104 2007年5月4日 (金) 09:34 (UTC)222.225.224.104

一つ目については、後者が近いです。また、価値観が異なることに関しては、そういう主張をするだけでレイシズムだと短絡的に決め付ける方がときどきおられるからです。一応、念のためあのようなことを書きました。不快に思われたら申し訳ないです。二つめについては、『日本を含めた普遍的な価値観』と対置させていることも、記述が必要ではないでしょうか。また、推論が必要になることで独自の研究にあたるかどうかの判定が微妙ではないかと思います。第三者の意見が聞きたいところです。三つめにも関連しますが、『レイシズムである』と書いてしまえば、『非倫理的である』という結論を推論する必要がなくなるのではないでしょうか。将来的に無駄な削除・差し戻しを防ぐためにも、疑義の出ないぐらい単純化するか、コメント依頼で合意を取ることを提案します。--Yhiroyuki 2007年5月4日 (金) 10:06 (UTC)


了解いたしました。コメント依頼に出すべきというご提案に賛同いたします。長々と議論に付き合ってくださって有難うございました。222.225.224.104 2007年5月4日 (金) 10:15 (UTC)222.225.224.104

よく確認せずに二重依頼になってしまいました。申し訳ないです。Yhiroyuki 2007年5月4日 (金) 11:06 (UTC)

記述案[編集]

初期の記述案[編集]

現状の案を挙げてみます。まず、1が最優先の検討対象です。2以降は1が受け入れられなかった場合の対案です。ref はわずらわしいのでここでは省きます。

  1. 222.225.224.104さんが2007年5月4日 (金) 15:46(JST)におこなった投稿 (15:58分の修正差分込み)
    また、バージニア工科大学での銃乱射事件に関して、自身のブログで『韓国人の犯行は確かに個別の事件として取り扱われるべきでしょうが、しかしその内容を鑑みるに支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質を考える必要がある』と、まるで朝鮮人・中国人が本質的に非倫理的な文化を持っていると主張するかのような発言を行った。
  2. 余計な表現を加えずに、レイシズムとはっきり言い切る。
    また、バージニア工科大学での銃乱射事件に関して、自身のブログで『韓国人の犯行は確かに個別の事件として取り扱われるべきでしょうが、しかしその内容を鑑みるに支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質を考える必要がある』と、レイシズム的な発言を行った
  3. 説明を詳しくする。
    また、バージニア工科大学での銃乱射事件に関して、自身のブログで、この事例に限らず人間と獣の間には価値観の共有などありえるわけなが(ママ)なく、今回の悲劇的な事件を教訓に、日本を含む人類普遍的な価値観と「人の命に価値観を持たない」支那(ママ)や朝鮮の価値観は決して相容れるものではないことを私たちは認識しなければなりません。韓国人の犯行は確かに個別の事件として取り扱われるべきでしょうが、しかしその内容を鑑みるに支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質を考える必要がある』と、『人類普遍的な価値』を持つ日本と対置させることで、まるで朝鮮人・中国人が本質的に非倫理的な文化を持っていると主張するかのような発言を行った。
  4. 現状 推論による結論を「~という批判を受けたことがある」とする記述に問題がある。
    また、バージニア工科大学での銃乱射事件に関して、自身のブログで『韓国人の犯行は確かに個別の事件として取り扱われるべきでしょうが、しかしその内容を鑑みるに支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質を考える必要がある』という発言を行い、「まるで朝鮮人・中国人が本質的に非倫理的な文化を持っていると主張しているように聞こえる。」という批判を受けたことがある。

2007年5月26日現在の記述案[編集]

状況の変化に依り新たに記述案を検討しなおすことになりました。とりあえず現在までの候補を挙げておきます。どれも1が基本になっています。

  1. 現状 桜井氏自身の発言のみをそのまま記述している
    「この事例に限らず人間と獣の間には価値観の共有などありえるわけなが(ママ)なく、今回の悲劇的な事件を教訓に、日本を含む人類普遍的な価値観と「人の命に価値観を持たない」支那(ママ)や朝鮮の価値観は決して相容れるものではないことを私たちは認識しなければなりません。」「韓国人の犯行は確かに個別の事件として取り扱われるべきでしょうが、しかしその内容を鑑みるに支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質を考える必要がある」(バージニア工科大学銃乱射事件に関して)この発言に関しては後日のブログで「朝鮮人や支那人(ママ)は本質的に非倫理的だという主張のもと行った。」と明言した。
  2. レイシズムの可能性を指摘する
    「この事例に限らず人間と獣の間には価値観の共有などありえるわけなが(ママ)なく、今回の悲劇的な事件を教訓に、日本を含む人類普遍的な価値観と「人の命に価値観を持たない」支那(ママ)や朝鮮の価値観は決して相容れるものではないことを私たちは認識しなければなりません。」「韓国人の犯行は確かに個別の事件として取り扱われるべきでしょうが、しかしその内容を鑑みるに支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質を考える必要がある」(バージニア工科大学銃乱射事件に関して)この発言に関しては後日のブログで「朝鮮人や支那人(ママ)は本質的に非倫理的だという主張のもと行った。」と明言した。「本質的に非倫理的」とは「道徳的観点に照らせば本質的に劣っている」という意味ともとれ、他民族を本質的に劣等とするレイシズム・エスノセントリズムにあたる可能性がある。
  3. レイシズムと言い切る
    「この事例に限らず人間と獣の間には価値観の共有などありえるわけなが(ママ)なく、今回の悲劇的な事件を教訓に、日本を含む人類普遍的な価値観と「人の命に価値観を持たない」支那(ママ)や朝鮮の価値観は決して相容れるものではないことを私たちは認識しなければなりません。」「韓国人の犯行は確かに個別の事件として取り扱われるべきでしょうが、しかしその内容を鑑みるに支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質を考える必要がある」(バージニア工科大学銃乱射事件に関して)この発言に関しては後日のブログで「朝鮮人や支那人(ママ)は本質的に非倫理的だという主張のもと行った。」と明言した。「本質的に非倫理的」とは「道徳的観点に照らせば本質的に劣っている」という意味であるので、他民族を本質的に劣等とするレイシズム・エスノセントリズムの定義に合致する。
  4. レイシズムの可能性を指摘されたことがあるという形にする
    「この事例に限らず人間と獣の間には価値観の共有などありえるわけなが(ママ)なく、今回の悲劇的な事件を教訓に、日本を含む人類普遍的な価値観と「人の命に価値観を持たない」支那(ママ)や朝鮮の価値観は決して相容れるものではないことを私たちは認識しなければなりません。」「韓国人の犯行は確かに個別の事件として取り扱われるべきでしょうが、しかしその内容を鑑みるに支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質を考える必要がある」(バージニア工科大学銃乱射事件に関して)この発言に関しては後日のブログで「朝鮮人や支那人(ママ)は本質的に非倫理的だという主張のもと行った。」と明言した。「本質的に非倫理的」とは「道徳的観点に照らせば本質的に劣っている」という意味ともとれ、他民族を本質的に劣等とするレイシズム・エスノセントリズムの定義に合致するのではないかという批判を受けたことがある。
  5. 非倫理的とは道徳的に劣等であるという字義的な記述のみを記す
    「この事例に限らず人間と獣の間には価値観の共有などありえるわけなが(ママ)なく、今回の悲劇的な事件を教訓に、日本を含む人類普遍的な価値観と「人の命に価値観を持たない」支那(ママ)や朝鮮の価値観は決して相容れるものではないことを私たちは認識しなければなりません。」「韓国人の犯行は確かに個別の事件として取り扱われるべきでしょうが、しかしその内容を鑑みるに支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質を考える必要がある」(バージニア工科大学銃乱射事件に関して)この発言に関しては後日のブログで「朝鮮人や支那人(ママ)は本質的に非倫理的だという主張のもと行った。」と明言した。「本質的に非倫理的」とは「道徳的観点に照らせば本質的に劣っている」という意味である。
  6. レイシズム・エスノセントリズムの項目を参照として張り、判断は読者に任せる
    「この事例に限らず人間と獣の間には価値観の共有などありえるわけなが(ママ)なく、今回の悲劇的な事件を教訓に、日本を含む人類普遍的な価値観と「人の命に価値観を持たない」支那(ママ)や朝鮮の価値観は決して相容れるものではないことを私たちは認識しなければなりません。」「韓国人の犯行は確かに個別の事件として取り扱われるべきでしょうが、しかしその内容を鑑みるに支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質を考える必要がある」(バージニア工科大学銃乱射事件に関して)この発言に関しては後日のブログで「朝鮮人や支那人(ママ)は本質的に非倫理的だという主張のもと行った。」と明言した。(レイシズム・エスノセントリズムも参照)


コメントはこちらにお願いします[編集]

  • IPユーザーですので意見のみ提示しますが、基本的に3が良いと考えます。但し3に於ける“『人類普遍的な価値』を持つ日本”という表現に関しては桜井様の主張である“『人類普遍的な価値』を日本が持っている”ということをウィキペディアが承認したかのように読めてしまう可能性もありますので、『人類普遍的な価値を持つ日本』と全て括弧に纏めるべきだと考えます。あと結びの部分は3と2のどちらでも構わないと考えますが、あえて言うなら余計な表現を用いずレイシズムと言い切るほうが良いと思います。222.225.181.136 2007年5月8日 (火) 08:09 (UTC)
  • 私もIPユーザーなので意見だけしますが、発言が「ソースのある事実であるから記す」のであれば、Doronpaの項以外にも山ほど記すべきことがあるかと思います。レイシズムというのは過激な表現で、blogの文章だけをもって判断するのは極めて危険だと思いますし、彼の普段の活動がレイシズムから来ているとレッテルを貼り、貶めるようなことにも繋がります。『まるで朝鮮人・中国人が本質的に非倫理的な文化を持っていると主張するかのような発言を行った』という部分については完全に個人の主観による論評で、私は全くそうは思いませんでした。例えば朝鮮戦争で100万人(40万人説も)の戦死者を出しながら勝利宣言したり、国内外で凶悪犯罪が目立つ中国人や韓国人は命に対する考えが日本人などに比べて軽いのではないか?…という考え方は一般的によくある考え方です。Doronpa氏の場合その漠然とした表現が個人のblogということで過激になっただけだと思います。有名人故の落とし穴でしょうね。今回の事件の場合は最初中国人が容疑者ではないかという噂が世界で広まり、真犯人は韓国人だったから、中国人・韓国人ということになってますが、これが例えば南アフリカだったら南アフリカはやっぱり危ないと考える人も大勢いたでしょう。話が逸れましたが、どうしてもこの発言を載せたいのであれば4の案が一番いいでしょうが、偏りのないよう今後彼の他の発言にも注目すべきかと思います。ひとつだけ理解して欲しいのは、ウィキペディアは個人の意見やレッテルを貼る場所でなく、知らない人に情報を伝えるためのものですから、偏見を植えつけそうな文章は書かないのが吉かと思います。ソースだけ提供して、どう判断するか個人の主観に任されるべきです。59.147.14.87 2007年5月12日 (土) 11:13 (UTC)
  • 問題点が理解できていらっしゃらないようなのでご説明いたしますが『支那(ママ)人・朝鮮人は人の命に価値を持たない民族的特質を持っている』と他民族・他文化を本質的に劣等なものと位置づけるのは明白なレイシズムに当たります。これはレイシズムの定義からして明らかです、ここまでは宜しいですね?桜井氏が『命に価値を持たない文化』としているものを称賛しているわけではない以上、これは明らかに支那(ママ)人・朝鮮人=本質的に非倫理的、日本人その他=本質的に倫理的(前者に比べれば)と桜井氏が主張されているということです。さて、貴方がおっしゃるのはつまるところ『支那(ママ)・朝鮮人は人の命に価値を持たない民族的特質を持っている。』という桜井氏の発言に基本的には賛同するということでしょうか?貴方がどのような考えを持っていようと自由ですが、それとは別にこのような意見がレイシズムに属することは理解していただけたらと思います。無論レイシズムを悪とするかそうしないかは貴方様の自由ですので、私の関するところではありませんが。210.235.223.33 2007年5月12日 (土) 04:05 (UTC)

初めて来た方の為に問題点を要約します、くどくなってしまいますが再び4月20日の日記より引用。 >この事例に限らず人間と獣の間には価値観の共有などありえるわけなが(ママ)なく、今回の悲劇的な事件を教訓に、日本を含む人類普遍的な価値観と「人の命に価値観を持たない」支那(ママ)や朝鮮の価値観は決して相容れるものではないことを私たちは認識しなければなりません。

ここでは『支那(ママ)や朝鮮の価値観』・・・獣(けだもの)、『日本を含む人類普遍的な価値観』・・・人間と対比させ、『倫理的で文明的である日本』と『非倫理的で野蛮な支那(ママ)や朝鮮』という構図を主張されています。さらに上の『民族的特質』云々の部分とあわせれば、桜井氏はこの構図は本質的なものであり一時的なものではないと主張されているのは明らかです。故に他民族・他文化を本質的に劣等と見做し、対して自民族・自文化を本質的に優越していると見做すレイシズム、エスノセントリズムに当たることは明白です。またこの種の発言を同日付の日記で再三なされている以上、これは桜井氏の確固たる考えであり、決して一時の舌禍ではないことは明らかです。210.235.223.33 2007年5月12日 (土) 04:29 (UTC)

  • やはりウィキペディアで禁止されている独自研究であり、中立的な観点からも外れているかと思います。明白という言葉を連呼されていますが、どこも明白ではありません。言葉の捉え方の違いであり、この場合はかなり極端だと思います。発言に関してはいい例として福島瑞穂氏の「犯罪者にも人権があるから傷一つつけてはならない。警察官は犯罪者が武器を所持していても丸腰であるべきで、その結果殉職しても職務のうちである」というのも氏の本質的考えで、社会的立場を考えるとかなり重大な発言ではありますが、その事についていちいち書いてませんよね。ノートを見る限りは書かれた後に削除されて保護されたものと思います。ソースもはっきりしているこの発言はなぜ削除され、そして項目が保護されたのかよく考えてください。このように事実だからと言って、何を書いていいものではありませんし、一方的な評価まで書くのはいきすぎです。他にもいい例として筑紫哲也氏の項目がありますね。例え本質的な考えや事実だとしても、いきすぎた評価は中傷にもなりえます。それはこの項目に関しても例外ではありません。レイシズムは人種差別主義者のことであり、区別することとは別のはずです。このあたり混同する人が多いようです。私個人の意見としては、単に文明として進んでいるか、遅れているかでモラルに違いがあるというように捉えています。この例えとしてよく言われる言葉として、豊かであれば心も豊かになるというものがあります。民族として未来永劫固定であるかどうかまで、Doronpa氏の発言からは察することはできません。たまたま氏の専門が中国・朝鮮だというだけのことで、そこに民族という言葉を使ったからといって過剰反応すべきではありません。どうも、この2国が出るだけで過剰反応する人が多すぎます。いずれにしても、もう少し研究が必要です。言葉尻だけで中傷にもなりかねない論評を載せるのは性急です。もっと他の人物の項目を参考にすることをお薦めします。この件につきましては中立的に「発言集」だけ載せれば事済むことかと思います。迷言集でも構いません。それさえも一般的には削除対象になることが多いようですが、発言をどう評価するかは個人の自由であり、独自見解を押し付けがましく載せるのはウィキペディアの精神に反しています。つまり論評は余計というのが見解です。個人のサイトでやるべきことですね。59.147.14.87 2007年5月12日 (土) 11:13 (UTC)


ええと、59.147.14.87氏が私の趣旨を理解されなかったようなのでもう一回書きますね。

支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質

この事例に限らず人間と獣の間には価値観の共有などありえるわけなが(ママ)なく、今回の悲劇的な事件を教訓に、日本を含む人類普遍的な価値観と「人の命に価値観を持たない」支那(ママ)や朝鮮の価値観は決して相容れるものではない

『レイシズムは人種差別主義者のことであり、区別することとは別のはずです。』とありますが、桜井氏はこの日の日記で中国人・朝鮮人=本質的に非倫理的とし、日本人をその対極にあるとする発言を繰り返しておいでです。

また貴方の言う『単に文明として進んでいるか、遅れているかでモラルに違いがあるというように捉えています。この例えとしてよく言われる言葉として、豊かであれば心も豊かになるというものがあります。』という主張は、桜井氏の民族的特質としてモラルが低い(人の命を重んじない)という主張には全く繋がりません。

又貴方の主張では桜井氏がなぜ中国・朝鮮同様に、又はそれ以上に貧しい他の国は置いておいて、支那(ママ)・朝鮮のみを獣に例えて『日本を含む人類普遍的な価値観』と対置させているのかもまったくと言って良いほど説明できません。


失礼ですが桜井氏のおっしゃる『支那(ママ)人や朝鮮人は「人の命に価値観を持たない」民族的特質を持っている。』という主張に対して、貴方は正当な区別であって何ら問題はないとお考えなのでしょうか?桜井氏の主張に賛同されるのでしょうか?文面から見てそうとしか取れないのですがそれで宜しいのですか?222.225.109.19 2007年5月12日 (土) 14:05 (UTC)

222.225.109.19氏も私の趣旨を全く理解されていないようですので説明します。彼のblogの前後をよく読んでください。解釈として「中国人・韓国人は人命を軽視する傾向にあり、彼ら自身もその自覚があり、それは日本人の価値観とは異なる」と読むことができます。もちろんここに出てくる○○人というのは、全員ということではありません。引用すると『支那人による犯行というケースを、支那人自身もあり得ることとして騒いでいたのではないかと考えられます。支那の歴史を振り返ると、その歴史は常に残虐さだけがつきまとい、人の命に何の価値観をおいたものではないことがわかります。』という歴史的背景を踏まえた上という事での意見ですね。それが直ちに「人種差別」という何の根拠も持たない人種という一点のみで優劣を論じるような事には繋がらないということです。わかりやすくいえば、「国家や民族の特徴を比較した」だけではないでしょうか?彼の意見は「極論」になるので支持はできませんが、人命軽視する傾向が日本よりもあるという部分は多くの日本人が共感している事ではないでしょうか。それは「なぜなのか?」という問題提起だと私は感じています。blogという表現の場では極論を持ってわかりやすくする傾向があります。桜井氏も中国・韓国人の全員がそうだとは思ってないでしょう。
差別とおっしゃるならば中国人や韓国人に限らず「自分達の民族が一番優れている」という何の根拠もない発言を繰り返している国は極めて多いですよ。それは特に珍しいことではありませんし、民族意識高揚のために不可欠なんていう人もいます。日本には謙虚という真逆な言葉がありますが、基本的に民族の誇りを通り越した部分にはそういうものが他国には根っこの部分で存在しています。人種差別と言うのなら私は当然全く支持しません。そもそもそのような解釈をしていないのですから。
また、氏が韓国と中国のみ挙げているのは上でも述べた通り彼がそれを専門としていて、blogの趣旨もそういうものだからです。それは誰の目にも明らかのはずですが、やはりこの2国に過剰反応しているようですね。この2国を専門に悪い面ばかり殊更注目している氏の行動は許せないと思う人もいるかと思いますが、それとこれとは話が別だと思います。
話を「趣旨」に戻しますが、ウィキペディアにおいて人物を掲載する場合の基本を守ってくださいということです。もちろん趣旨を理解した上で桜井氏の発言そのものよりも、論評を記す事そのものに反論しています。「中立的観点」に立つならば、発言に対しては論評でなく、その「発言のみ」を記せばいいのです。特定の人物の一部の発言をもって責任追及したり、攻撃するための場所ではありません。もう少し他の人物の項目内容を見てくださいとしか言いようがありません。私も様々な人物のマイナスイメージ、プラスイメージどちらにもなる発言をソースをつけて書いたことがありますが、ことごとく削除されています。つまりソースのある事実であっても中傷にもなり、また過大評価にもつながるという事で、そこに論評までつけるのは一般利用者に対してイメージを植えつけるものでふさわしくないということですね。誰もが共通の価値観があるような論評なら良いのかもしれませんが、なかなかそういうものはないでしょう。また、中立的な観点に基づく疑問があって処理した部分は勝手に元に戻さないでください。そこまでやるとウィキペディアの私物化になります。消すならばそれなりの理由を添えてください。--59.147.14.87 2007年5月12日 (土) 15:16 (UTC)

コメント依頼から来ました。上記に「記述案」として4例が挙がっていますが、どうしてもこの中から選ぶとしたら案4です。しかし、案1~4のすべてが、客観的(中立的)な記述になっていないようにも見えます。案4については疑問が残っているのですが。

Doonpa氏の発言内容の賛否はさておいて、まず揺ぎ無い事実は「『韓国人の犯行は確かに(中略)民族的特質を考える必要がある』と発言した」ということだけですよね。ところが記述案1には『まるで朝鮮人・中国人が本質的に非倫理的な文化を持っていると主張するかのような』とあり、これは主観的な表現です。そんな主張してるようには読めない、という人だっているでしょう。Doronpa氏にもそんなつもりはないかもしれません。次に記述案2では「レイシズム的な」とあり、コメント依頼以前には一時これが問題になっていたようですが、「レイシズム的な」は中立性に欠けている表現ではないでしょうか。レイシズムの定義があるとしても、仮にDoronpa氏本人が「自分はレイシストであり、これはレイシズムに則った意見である」とでも明言していない限り、氏の発言が定義に合致したものだと絶対確実には言えません。解釈違いの可能性が(どれほどであれ)あるからです。そして、何も知らない人に「そうか、これってレイシズム的な発言なんだな」とか「なるほどこの人ってレイシストなんだな」と思わせてしまう(かもしれない)記述はよくありません。解釈の余地は人それぞれに残しておかなければ。記述案3は記述案1と同様です。

最後に記述案4の、『~という批判を受けたことがある。』という文末について。誰か高名な人が表立ってDoronpa氏を批判したり、または、個別の名前は挙げられないけれども一般的と言えるほど大勢の不特定多数が批判した、ということでしょうか? 世の中はなんだって賛否両論あるのですから、批判を受けたとだけ書いても意味がありませんよね。批判について書くのであれば、Doronpa氏がそういう評価を比較的多く(あるいは強く)受けているという拠り所が必要だと思います。もし批判意見がWikipedia投稿者の誰かの意見だというなら、それは中立ではないので不適切であり、批判については書かずにおくべきでしょう。

つまり、案1~3は主観的なので不適切、案4は主観的もしくは言葉足らず、と見ました。……ただ「~と発言した」とだけ書くのでは駄目なのですか?--矢側 2007年5月14日 (月) 18:15 (UTC)

>ただ「~と発言した」とだけ書くのでは駄目なのですか?
私はそれが一番簡単でいいと思います。それ以上のことを書きたい人は、相応の理由を出せばよいだけですから。案4については、コメント依頼時の記述がそうであったという以上の意味はありません。--Yhiroyuki 2007年5月16日 (水) 12:23 (UTC)


>ただ「~と発言した」とだけ書くのでは駄目なのですか?
そうですよ、考えてみたら、それが一番良いと思われます。どれも主観的でしたね、私のも含めて、大変申し訳ないです。簡単に言えば、単純に事実だけを列挙して、後は、見た人の解釈に任せるというやり方が基本だと思います。それ以上を書く必要も、今のところ感じられませんし…--竹島は日本 2007年5月16日 (水) 13:59 (UTC)


発言を記すだけで十分だと思います。
>植民地統治肯定論者、亜細亜・太平洋戦争肯定論者でしたらこのような
のようなレッテルをノートにおいてもしている時点で中立的な観点に立ててないでしょうね。肯定したらまるで悪いかのようです。歴史は全肯定、全否定だけでは議論できませんよね。Doronpa氏の項目は全体的に悪意のある構成になっているようにも見えるので、もっと見やすく再編したほうが良いかと思います。--210.250.81.3 2007年5月17日 (木) 08:22 (UTC)

Doronpa(桜井)氏本人からの意見表明がありました[編集]

桜井氏ご本人が当の発言についてコメントされましたので良くご覧になってください、『誤解のないように一点だけ注意しておくなら、同項目の「その他活動や言動」には>まるで朝鮮人・中国人が本質的に非倫理的な文化を持っていると主張するかのような発言を行った。と書かれていますが、私は「主張するかのような発言を行った」のではなく「主張している」のです。』とのことです。出典[[1]]
ですから
>ところが記述案1には『まるで朝鮮人・中国人が本質的に非倫理的な文化を持っていると主張するかのような』とあり、これは主観的な表現です。そんな主張してるようには読めない、という人だっているでしょう。Doronpa氏にもそんなつもりはないかもしれません。
という発言は本人によって否定されました。桜井氏ご本人がこの議論を見て、はっきりと自身の見解として『まるで朝鮮人・中国人が本質的に非倫理的な文化を持っていると主張するかのような発言を行った。と書かれていますが、私は「主張するかのような発言を行った」のではなく「主張している」のです。』とお答えになっているのですから、これを記述しないのは本人に対しても失礼であり、事実を書くというウィキぺディアの精神にも反していると感じ加筆しました。210.189.145.106 2007年5月25日 (金) 14:30 (UTC)


桜井氏ご本人が、『中国人・朝鮮人は本質的に非倫理的な文化(民族的特質)を持っていると私は主張しているのだ。』と明言された以上、発言の意図に関するあいまいさはなくなったかと思います。

さて、桜井氏のご持論である『中国人・朝鮮人は本質的に非倫理的な文化(民族的特質)を持っている』との主張ですが、これは上でも述べられたように、他民族・他文化を『本質的に劣等』という風に言い切っているのですから、明らかにレイシズムかエスノセントリズムに当たります。議論の前に一応確認させていただきますが、桜井氏のように『他民族・他文化を本質的に劣等・非倫理的と見做す事』が『正当な区別』とお考えになる方がいましたら、その旨をお書きくださいませ。210.189.145.106 2007年5月25日 (金) 14:40 (UTC)

『本質的に非倫理的』を『本質的に劣等』として解するのは飛躍がすぎます。桜井氏の主張の本質は、「価値観が異なる」であると思いますがいかがでしょうか。
>利用者-会話ページへの返信 とりあえず、今ある情報では、ただ表現が少し過激なだけでありレイシズム、エスノセントリズムとするには無理があります。あと、社会学などの専門家ではありませんので、記事の書き方以外で私に質問されても無意味です。学問的な質問・相談は、識者に行ってください。(工学的な相談であれば、多少お力になれたかもしれません)--Yhiroyuki 2007年5月25日 (金) 15:27 (UTC)

:「『本質的に非倫理的』を『本質的に劣等』として解するのは飛躍が過ぎる」といいますが、どうしてでしょうか?「桜井氏の主張の本質は、「価値観が異なる」であると思いますがいかがでしょうか。」との発言ですが、ここでは単に「価値観が異なる」と言っているのではなく、「本質的に劣った価値観を持っており、そうでない価値観を持っている我々とは価値観が異なる。」と言っているのではないでしょうか?これを『本質的に劣等』と解するのが飛躍だとは思えません。それこそまず有り得ないと思いますが、桜井氏本人が「非倫理的なのは悪いことではない」と主張されない限り、「本質的に非倫理的」→「本質的に劣等」と言っているということは明白ではないでしょうか?Yhiroyuki氏の主張の方が無理があると思います。

:それと「ただ表現が少し過激なだけでありレイシズム、エスノセントリズムとするには無理があります。」とおっしゃられましたが、意見の違いはあれ「他民族・他文化は本質的に非倫理的」という言説を「表現が少し過激なだけであり」程度で済ませたのは驚きました。本当に良くお考えになったうえで発言されたのですか?貴方は前に「どのような思想の人間であれ、このような発言には反対するもの」とはっきり仰ったはずです。最後にこの発言がエスノセントリズム・レイシズムとするのに無理があると仰られますが、他民族・他文化を本質的に非倫理的だとする発言の何処が「エスノセントリズム」・「レイシズム」ではない。つまり裏を返せば「正当な区別である(多少表現が過激なだけで)」と言えるのですか?210.189.145.106 2007年5月25日 (金) 15:41 (UTC)

出来れば、「劣った」を導出した客観的な理屈をご説明願います。この部分で説明に飛躍があると思いますので、証明の補充をお願いするということです。客観的な導出が行えるのであれば、その編集に賛成できます。
前回の発言との相違点については、回答が私信めいてしまったので、利用者‐会話:Yhiroyukiをご参照ください。--Yhiroyuki 2007年5月25日 (金) 17:19 (UTC)
追記 「どのような思想の人間であれ、このような発言には反対するもの」これは、私の発言とは異なります。どなたか他の方とお間違えではないでしょうか。前回、桜井氏の発言に対して述べたことはにあるとおりです。--Yhiroyuki 2007年5月25日 (金) 18:28 (UTC)


>出来れば、「劣った」を導出した客観的な理屈をご説明願います

まず、桜井氏の主張は「中国・朝鮮人は本質的に非倫理的である。」です、またその比較対象として自民族たる日本人を含む中国人・朝鮮人以外を「普遍的な価値観」としており、前者(中国人・朝鮮人)に比べて相対的に「倫理的である」、言い換えれば前者(中国人・朝鮮人)に比べて「道徳的に優れている」と主張されています。ここまでは桜井氏が明確に述べているので異論はないものと考えます。

さて、問題はココからです。桜井氏の発言をもう一度紹介します。『この事例に限らず人間と獣の間には価値観の共有などありえるわけなが(ママ)なく、今回の悲劇的な事件を教訓に、日本を含む人類普遍的な価値観と「人の命に価値観を持たない」支那(ママ)や朝鮮の価値観は決して相容れるものではないことを私たちは認識しなければなりません。』

まずはYhiroyuki氏の主張である「桜井氏は単に『中国人・朝鮮人の価値観と日本人を含むそれ以外の人間すべての価値観が異なる』ということを強調しただけ」というのが正しいかどうか桜井氏の発言に沿って客観的に見てみましょう。確かに桜井氏はこの発言で、「価値観が相容れない」ということをいっておいでですが、それがYhiroyuki氏のおっしゃるように「価値観の優劣ではなく相違に重点を置いている」のかと言われればそれは否だと分かります。

一般に価値観Aと価値観Bがあり、それらを比較して単に「異なっている」ことを強調する場合、そこに非倫理的等の用語を用いる必要はありませんし、また一方の価値観を獣、もう一方を人間と例える必要もありません。たとえその異なっている程度が「相容れない」ほどであっても、これは変わりません。相違は相違であり、非倫理的云々は価値判断で別の次元にあるからです。

しかし桜井氏はここで朝鮮人・中国人を「獣」に例えており、人間的道徳に欠けているとして相手を非難する際の比喩表現を用いています。対して日本人を含むそれ以外の人々は「人間」と例えられています。この対応関係は「獣」と「人間」が主題となっている前半と「中国人・朝鮮人」と「日本人を含むそれ以外の人々」が主題となっている後半の述語が、「価値観の共有などありえるわけなが(ママ)なく」と「価値観は決して相容れるものではない」となっていることで明らかです。更に桜井氏は後日のブログではっきりと「これらの発言は中国人・朝鮮人が本質的に非倫理的であるという私の主張に基づいて行った。」とおっしゃっています。

つまり桜井氏は「中国人・朝鮮人の価値観は本質的に日本人を含むそれ以外の人々の価値観より非倫理的であり、それ故にそのような価値観は日本人を含むそれ以外の人々の価値観とは相容れない」ということを強調したいのです。ここで前段を省いて、後段の結論だけを見れば確かにYhiroyuki氏のいうとおり『中国人・朝鮮人の価値観と日本人を含むそれ以外の人間すべての価値観が異なる』ということを強調しただけ」と取れますが、これは妥当とはいえません。失礼ながらYhiroyuki氏はノートで「背景となっている主張よりもこの日の発言で行った理論の導出結果に主眼を置いている。」と発言されたのでこのような見解を取られたのでしょうが、相手の論理を追うときは結論だけでなくその前提条件・背後にある主張も見なければ本旨を取り違えます。この日の発言を見ればただ単に「中国人・朝鮮人の価値観は日本人を含むそれ以外の人々の価値観とは相容れない」という結論を出しているのではなく前段の「中国人・朝鮮人の価値観は本質的に日本人を含むそれ以外の人々の価値観より非倫理的であり」を前提条件として、「日本人を含むそれ以外の人々の価値観とは相容れない」と主張していますので、Yhiroyuki氏の主張である「桜井氏は単に『中国人・朝鮮人の価値観と日本人を含むそれ以外の人間すべての価値観が異なる』ということを強調しただけ」というのは桜井氏の本旨を大きく外した見解です。


次に要求された「本質的に非倫理的→本質的に劣っている」の証明です。非倫理的という価値判断が正か負か、もっとはっきり言えば「優れている」か「劣っている」ということが焦点となりますが、非倫理的という言葉は「道徳的でない、人の道に反している」というのとほぼ同義であり、通常相手を非難して用いられる言葉で、明確に負の価値判断が入っています。つまり「劣っている。」訳です。桜井氏もこれを通常の相手を非難する意味で使用されていますので、この部分には問題がありません。更に一番上でも提示されていたように桜井氏の論理ではこれを中国人・朝鮮人の本質的特質とし、日本人を含むそれ以外の人々はその反対にあるとしていますので、これは「中国人・朝鮮人は、道徳的・倫理的観点から見れば、日本人を含むそれ以外の人々よりも本質的に劣等である。」という事です。ここでは道徳的観点についてのみ述べており、その他の観点からは如何なのかは分かりませんが少なくとも道徳的観点で言えば「中国人・朝鮮人は本質的に日本人を含むそれ以外の人々より劣等である。」とはっきり述べているわけです。これは自民族に比べて他の民族の文化は本質的に劣っている面を持つと述べている点でエスノセントリズムであり、またある民族の文化が本質的に劣っている面をもつといっている点でレイシズムです。222.225.181.226 2007年5月26日 (土) 03:38 (UTC)

>通常相手を非難して用いられる言葉で、明確に負の価値判断が入っています。つまり「劣っている。」訳です。
まだ、この部分のつながりが甘いように見受けられます。あと、編集に関係しない私の個人的見解がどうこうというのは、何度も申し上げた通り無意味です。あなたの編集の中立性を、どう保証できるかが全てです。その論旨展開を本文に織り込んだ文案を作成、上の記述案に追加し、他の執筆者にも査読してもらって下さい。必ずしも、全員が賛同する必要はありませんし、議論に勝つ必要はもっとありません。 --Yhiroyuki 2007年5月26日 (土) 03:48 (UTC)
了解しました。それでは私の「通常相手を非難して用いられる言葉で、明確に負の価値判断が入っています。つまり「劣っている。」訳です。」という論理展開に対し、「まだ、この部分のつながりが甘いように見受けられます。」とありますが、具体的にどこが甘いと感じられたのか多少印象的であってもどうか指摘ください。222.225.181.226 2007年5月26日 (土) 04:02 (UTC)
猶、念のために手元にある三省堂の国語辞典を引いてみた所、「倫理」については「人として守らなければならないことがら」(類義語 道徳・道義)とあり、「倫理的」については「倫理に関すること、または倫理にかなっている様子」とあり、対義語として「非倫理的」とありました。これらから「非倫理的」とは「倫理に関わらない事柄、もしくは人として守らなければならないことがらに反している様子」と定義されていることになります。ここでは人間の価値観について述べていますので、後者の意味で桜井氏は使用されています。
先ほどの質問では抽象的に過ぎました。非倫理的という言葉に負の価値判断が入っているかどうかが明確でなく、証明を要するのでしょうか?それとも通常は相手を非難して用いられる言葉であるという部分に証明を要するのでしょうか?それともそれ以外の自分が見逃している穴があるのでしょうか?どうかご教授ください。222.225.181.226 2007年5月26日 (土) 04:12 (UTC)
結局のところ、「負の価値判断」=>「劣っている。」とは一意に決定できないことにあると思います。(個人的には、強い敵として警戒しているという印象があります) --Yhiroyuki 2007年5月26日 (土) 04:24 (UTC)
強い敵として警戒しているというのは事実でしょうが、ここではそれは関係ないと思います。負の価値判断=劣っていると一意的に定まらないのは一般論としては成り立ちますが、この場合それが問題になっているのではありません。私は桜井氏が「中国人・朝鮮人は、道徳的・倫理的観点から見れば、日本人を含むそれ以外の人々よりも本質的に劣等である。」という主張をしているとみなしており、それを曇りなく証明できるかどうかが現在の論点のはずです。つまり非倫理的(「人として守らなければならないことがらに反している様子」)が「劣っている」と一般的にはみなされているか、また更に言えば桜井氏がそのような意味でこの言葉を使い相手を非難しているのかが焦点です。私の書き方にも誤解を招く要因があったので申し訳ありません。ですが「非倫理的」という言葉に負の価値判断が入っているということには同意されるのですよね。一般論では負の価値判断=劣っているとはならないかもしれませんが、この場合は非倫理的という言葉の意味に照らせば道徳的に「劣っている」という意味で負の価値判断をしており、それ以外の、例えば「手ごわい敵として警戒している」などといったものではないとするのが自然ではないでしょうか?論旨が不明瞭なら私の該当部分の意見「通常相手を非難して用いられる言葉で、明確に負の価値判断が入っています。つまり「劣っている。」訳です。」を「通常相手を非難して用いられる言葉で、道徳的に「劣っている」という負の価値判断が入っています。」と修正します。222.225.181.226 2007年5月26日 (土) 05:07 (UTC)


現時点での記述案として二つ考えています。
この事例に限らず人間と獣の間には価値観の共有などありえるわけなが(ママ)なく、今回の悲劇的な事件を教訓に、日本を含む人類普遍的な価値観と「人の命に価値観を持たない」支那(ママ)や朝鮮の価値観は決して相容れるものではないことを私たちは認識しなければなりません。」「韓国人の犯行は確かに個別の事件として取り扱われるべきでしょうが、しかしその内容を鑑みるに支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質を考える必要がある」(バージニア工科大学銃乱射事件に関して)この発言に関しては後日のブログで「朝鮮人や支那人(ママ)は本質的に非倫理的だという主張のもと行った。」と明言した。「本質的に非倫理的」とは「道徳的観点に照らせば本質的に劣っている」という意味ともとれ(この辺は国語辞典での「非倫理的」の意味を載せるべきか)、他民族を本質的に劣等とするレイシズム・エスノセントリズムにあたる可能性がある。


この事例に限らず人間と獣の間には価値観の共有などありえるわけなが(ママ)なく、今回の悲劇的な事件を教訓に、日本を含む人類普遍的な価値観と「人の命に価値観を持たない」支那(ママ)や朝鮮の価値観は決して相容れるものではないことを私たちは認識しなければなりません。」「韓国人の犯行は確かに個別の事件として取り扱われるべきでしょうが、しかしその内容を鑑みるに支那人(ママ)や韓国人・朝鮮人に共通する「人の命に価値観を持たない」民族的特質を考える必要がある」(バージニア工科大学銃乱射事件に関して)この発言に関しては後日のブログで「朝鮮人や支那人(ママ)は本質的に非倫理的だという主張のもと行った。」と明言した。本質的に非倫理的とは道徳的観点に照らせば本質的に劣っているという意味であるので、他民族を本質的に劣等とするレイシズム・エスノセントリズムの定義に合致する。


1は今までの議論で最低限合意できそうな内容にとどまったもので、現行の記述にレイシズム・エスノセントリズムの可能性の指摘を追加したもの、2は私の見解が100パーセント反映されたものです。1、2の其々への賛否、及び問題点をご指摘ください。222.225.181.226 2007年5月26日 (土) 05:17 (UTC)
これらの意見を上の記述案に追加しました。222.225.224.215 2007年5月26日 (土) 12:14 (UTC)
拝見しましたが、1つの発言に対しての引用がやたら長いように思えます。またブログの当該記事を見てもママという表現は見当たりません。
人種差別に関しては私も該当しないと思います。命に対する価値観というのは、時代によって変わっていくものです。例えば動物1つとっても、かつて日本でも今ではとても理解されない乱雑な野犬狩り(いきなり棒で殴打して殺害していたそうです)があり、文明の発達と共にペットとして家族として扱われるようになっていきましたが、残念ながら中国や韓国ではまだまだです。これから生活にゆとりができるとそのような層も増えていくかと思いますが、その事と同じで、「人の命に価値観を持たない」と評すことが、そのまま人種差別には繋がるわけではありません。例えば中国というより漢民族として説明するとわかりやすいですが、中国と台湾では同じ漢民族でもかなり価値観が異なります。香港にしてもそうだったでしょう。異なる政治体制や生活水準にあるだけで価値観は著しく変化していきます。価値観の相違により相容れないことがあるのは致し方ないことです。それを差別だと訴えるのはいかがなものかと思います。--蒼天 2007年5月26日 (土) 22:40 (UTC)
ここで問題になっているのは貴方の意見ではなく桜井氏の意見です。「異なる政治体制や生活水準にあるだけで価値観は著しく変化していきます。価値観の相違により相容れないことがあるのは致し方ないことです。」と貴方は主張されていて、上にも例をいくつか挙げています、これらについて論評は差し控えます。貴方の個人的意見ははっきり言って関係がないからです。桜井氏は「人の命に価値を置かないのは彼等の民族的特質」「中国人・朝鮮人は本質的に非倫理的という主張の元発言した」とはっきり述べておいでです。貴方個人の意見がどうであれ、桜井氏の意見は彼自身によって何度も提示されており、「中国人・朝鮮人は道徳的に見て本質的に劣等」というものです。貴方のおっしゃるようなものとは違います。桜井氏を弁護したいが為に彼の発言を貴方の個人的見解に摩り替えるのは慎むべきです。222.225.225.227 2007年5月27日 (日) 02:15 (UTC)


追伸 「支那」についてのママ付与は、この語彙が「鮮人」などと同様現在では差別語として使用されることも多い語であり、ウィキペディアに於いて何の注釈もなく使用されるべき語彙ではないためです。「ありえるわけながなく」についてのママ付与は、誤字が被引用者によるものであり、引用者によるものではないことを示すためです。二つとも一般の書籍に準じたものですし、別に私の個人的な記法ではありません。222.225.225.227 2007年5月27日 (日) 02:20 (UTC)

追伸2 それから1記述案については全て桜井氏の直接的発言、見解のみを記載したものですからそのことをご承知おき下さい。それと引用の部分が長くともこのときの彼の主張を知る上で同日の二つの発言と後日発言の意図に対する彼自身の説明は欠かせないものだと考えますし、とりわけ後者に関しては、桜井氏がせっかくご自身の発言について誤解を招かぬよう意図を説明してくださったのに、それを載せないのは彼に対しても失礼でしょうし、記事の読者に対して誤解を与える原因にもなります。222.225.225.227 2007年5月27日 (日) 02:33 (UTC)

「ママ」ついてはわかりにくく、誤解されるので避けるべきです。中華思想における韓国と中国の立場のようにも見えてしまいます。もし気になるのでしたら、発言の最後に「引用元のまま記しました」と注釈をつければいいかと。全文引用についてはわかりました。表示の方法を工夫すれば見やすくなるかと思います。
さて、反論についてですが「価値観の相違により相容れないことがある」ことが「人種差別」とまではならないと言っているのです。まさにこのように結びつける図式こそ独自研究の類になり、ウィキペディアの精神に反しています。ウィキペディアは冷静かつ客観的であり、多くの人が同じように判断できるような内容でなくてはなりません。失礼ながら偏った物の見方と言わざるを得ません。「非倫理的という主張」の元に行ったというだけで、それがなぜ「人種差別」になるでしょう。人種という固定のものに対して、論理とは変わり得るものです。日本人の鯨食、韓国人の犬食などは食文化であっても、欧米のほとんど民族とは相容れない価値観ですが、差別されているわけではありません。日本人から見て非論理的で相容れない価値観としただけで、人種差別とするのは飛躍しすぎているかと思います。あなたの個人的見解に対して、異なる見解があってはいけないのでしょうか?
「桜井氏の意見」ならば、blog内で人種差別主義者である事を完全に否定しています。「ひとくくりにした物の言いよう」なので、一種「偏見」になる可能性はありますが、「人種差別」にはなりません。散々上のほうで出ていますが、そのような個人の見解を記すのは適当ではありませんし、とても万人が共有できる見解ではないので、今回再提示された案では1が最もふさわしいと考えます。
異論があるだけで弁護というレッテルを貼るのはいかがなものかと思います。議論をしているのであって、1以外の案は個人的見解に過ぎないのと言っているのです。ですからもちろん私の見解は載せる必要はありませんし、「人種差別ではない」と記す必要もないのです。これは大事なことですが、ウィキペディアは告発する場所でも、断罪する場所でもないのです。発言をまとめた上で全ての判断は読者に委ねるべきです。ご理解いただけましたでしょうか?--蒼天 2007年5月27日 (日) 05:22 (UTC)
どこにコメントを付けるか迷ったのですが、こちらに。どうしても「2007年5月26日現在の記述案」の中から選ぶとしたら、案1だと思われます。引用だけ、すなわち、事実だけの記述だからです。案2~4にある「レイシズム」という表現に中立性が欠けているとの見方に変わりはありません。「可能性の指摘」などといった、それを示唆するような記述は思考誘導になりえますし、案6のように「レイシズムを参照」などという形でリンクを張ったりするのも同じです。そもそも誰による指摘なのかも曖昧です。
案5では「字義的な記述」とありますが、他人の発言の一言一句を字義的な意味で解釈することが、その人物の意図はこうであると断言する理由にはなりません。推測・憶測に基づくのであれば記述することはできません。案5で言うなら、「劣っている」とは明言していない、ということですね。日常的にはいちいち「あなたの発言はこういう意味ですか?」と確認は取らないでしょうが、どんなに迂遠でまどろっこしくて頭の固い対応だとしても、人の心中や思想に関することですから、Wikipedia記事として間違いのないよう注意しなければなりません。もちろん再びDoronpa氏こと桜井氏の明言があれば、そのように記述することができます。
ただ、「その引用が、記事に必要なのか?」「引用するとしても、どこからどこまでを引用すべきなのか?」ということについて考えてみてください。222.225.225.227氏は「桜井氏がせっかくご自身の発言について誤解を招かぬよう意図を説明してくださったのに、それを載せないのは彼に対しても失礼でしょうし、記事の読者に対して誤解を与える原因にもなります。」と仰っていますが、Doronpa氏への気遣いは判断材料としては無価値であり、誤解を防ぐという点が重要です。
引用文中の「ママ」表記に関しては、誤解を防ぐための注釈が必要だとしても、引用文中に入れるのは望ましくありません。蒼天氏の仰るように、引用の終わりに一言付け加える形にしたほうがよいと思います。でも引用文は改変されていないから引用文なのであって、記事に記載する際には、注釈はむしろ余計な記述かもしれませんね。--矢側 2007年5月27日 (日) 13:41 (UTC)


蒼天氏へ

>「ママ」ついてはわかりにくく、誤解されるので避けるべきです。中華思想における韓国と中国の立場のようにも見えてしまいます。

この部分の後段ははっきり言いまして理解に苦しみます。一体何処から『中華思想における韓国と中国の立場』などという全く関係のない発想が出てくるのですか?失礼ながら私の文章をよく読んでいらっしゃらないか、何か他の事と混同しているようです。あと、蛇足ですが『「ママ」ついて』ではなく『「ママ」について』ですよ。


それと

>日本人から見て非論理的で相容れない価値観としただけで、人種差別とするのは

とありますが、桜井氏は『日本人を含む普遍的な価値観』というものを想定して中国人・朝鮮人を『本質的に非倫理的』といっていますから、『日本人から見て非論理的で相容れない価値観としただけで』はなく、『中国人・朝鮮人はそれ以外の全ての民族から見て異常で非倫理的だ』と主張されていることになります。原文では『日本を含む人類普遍的な価値観と「人の命に価値観を持たない」支那(ママ)や朝鮮の価値観は決して相容れるものではない』ですから、日本人だけが中国人・朝鮮人より『本質的に倫理的』とされているわけではありません、桜井氏の主張する対立軸は『中国人・朝鮮人とそれ以外のすべて』です。無論その中でも日本人を重要視しているのは事実でしょうが。

最後に

>反論についてですが「価値観の相違により相容れないことがある」ことが「人種差別」とまではならないと言っているのです。

とありますが、桜井氏はただ単に『価値観の相違に依り相容れないことがある』と言っているのではありません。『中国人・朝鮮人は日本人を含むそれ以外の民族より本質的に非倫理的。』という主張を前提として『決して相容れない価値観だ。』と仰られているのです。桜井氏が5月18日のブログで読者や我々討論者の誤解を避けるためにとあの発言の真意を説明してくださいましたが、その文言どおりに記せば『誤解のないように一点だけ注意しておくなら、同項目の「その他活動や言動」には>まるで朝鮮人・中国人が本質的に非倫理的な文化を持っていると主張するかのような発言を行った。と書かれていますが、私は「主張するかのような発言を行った」のではなく「主張している」のです。』ということです。桜井氏は貴方の言うように『単に価値観が違って相容れないことがある。』と主張されているわけではないのです。これは桜井氏ご自身も明言されていることですので、私と貴方の間に編集に対する見解の相違があれ押さえておくべき事実です。222.225.224.218 2007年5月27日 (日) 14:17 (UTC)


矢側氏へ、なるほど仰ることは大体分かりました。ウィキペディアでは慎重な姿勢も大切なことかと思います。

>案5では「字義的な記述」とありますが、他人の発言の一言一句を字義的な意味で解釈することが、その人物の意図はこうであると断言する理由にはなりません。推測・憶測に基づくのであれば記述することはできません。案5で言うなら、「劣っている」とは明言していない、ということですね。日常的にはいちいち「あなたの発言はこういう意味ですか?」と確認は取らないでしょうが、どんなに迂遠でまどろっこしくて頭の固い対応だとしても、人の心中や思想に関することですから、Wikipedia記事として間違いのないよう注意しなければなりません。


なるほど、確かに一理ある意見ですね。ただあらかじめ議論の前提として確認したいのですが、一般的な事実として「『非倫理的』という言葉は字義通りでは『道徳的に劣っている』となり、通常相手が『劣った』形質を持っていると批判する言葉である。」ことには同意されますよね?前者については上にそのことの典拠とした国語辞典からの引用もありますし、後者についても常識を踏まえればさして疑問を抱く必要もないものと考えます。そして実際桜井氏は中国人・朝鮮人を非難する文脈で「本質的に」という修飾語も付けてこの単語を使用されています。

さて、私と矢側氏の意見の相違は「明示されていないが、論理的に考えれば確実にいえること」に対する記述方針の差なのだと思います。

確かに桜井氏が直接的に仰ったのは「非倫理的」という「単語」であって、「道徳的に劣っている」という「語句」ではありません。しかし、上でも述べたとおり非倫理的という語の一般的意味からして、そして実際に相手を非難する文脈で用いられていることからして、この「非倫理的」という「単語」は「道徳的に劣っている」という通常通りの意味と捉えるべきであり(より正確に言えば、これ以外の意味を「倫理的」という単語に「代入」できないのです。)、そこには「劣っている」という「語句」が含まれています。無論これは明示されてはいないわけですから、その度合いが限りなく零に近くとも、矢側氏のような考えの人からは「推測」と見えるのでしょう。ですが私の考えからすれば、桜井氏の直接的な発言は「非倫理的」であって「道徳的に劣っている。」ではなくとも、語句の意味と使用される状況を踏まえて論理的に考えれば、ここでの「非倫理的」という単語は、字義的な(言い換えれば本来の)意味どおり「道徳的に劣っている。」となるので、桜井氏が「道徳的に劣っている」というように直接的に仰った場合と等価であると考えます。よって桜井氏の「本質的に非倫理的」という主張は「道徳的見地からみて本質的に劣等」という主張と等価だと考えたわけです。(故にレイシズム・エスノセントリズムの定義に合致すると考えたわけですが、それについては別の話になってしまうのでここでは述べません。)222.225.224.218 2007年5月27日 (日) 14:50 (UTC)

どうやら根本的な所で他の方と解釈に違いがあるようですね。「非倫理的な文化を持っているという主張」を「道徳的に劣っている」と仮に解釈したしても、それがどうして人種差別になるのですか?時代や政治体制でいくらでも変化していく民族・国家的道徳の話とは分離して考えるべきではないでしょうか?元来人種差別には根拠は存在しないのです。人種であること以外を根拠にしている時点で人種差別とは一線を画すものでしょう。発言をいわゆる「書き抜き」すると、このような矛盾が生じてきます。桜井氏は「中国・朝鮮人だから非論理的だ」とも「非論理的である理由は中国・朝鮮人であるから」とも言っていません。話の前後をよく見ると「これこれこういう事をやっているから非論理的なんだ」というものですね。言葉に関する概念の問題ですので、詳しくは人種差別の項目でやったほうがいいかもしれません。そちらにはまた別の専門家もいるでしょうから、きっと実になる話ができるものと思います。
ところで「日本人を含むそれ以外の民族」とはどこからの出典ですか?どなたかが要出典マークをつけているように、他の話についても出典は全て明らかにしたほうがいいでしょうね。
また、私の指摘した後半部分はことごとくスルーされていますが、ウィキペディアは独自研究の場でも意見発表の場でも個人攻撃の場でもないことはご承知でしょうか?あなたが桜井氏の発言に怒る気持ちは、私も中国の歴史を深く学び心酔しているので、冷静さを欠くと中国の友人がけなされているようにも感じますからよくわかりますし、それを不特定多数の人に伝えたいという気持ちも理解できないわけではないですが、残念ながらウィキペディアはそういう宣伝をする場所ではないのです。個人でサイトを作ってやるべきことではないでしょうか?
また「ママ」についてですが、中華思想では中国が父(親)、韓国・北朝鮮・ベトナム・日本等周辺国が子です。ですから支那(ママ)という部分がこのように解釈される可能性を示唆しているのです。つまり「ママ=母親」という見方ですね。文を書いている本人からすれば何ら不自然は感じないものですが、違う解釈をされる可能性は十分にあります。現実私は一瞬そのように見え、気づくまでに時間を要しました。詳しくはママの項目をご覧になるとわかりますが、亀甲括弧をつけることが誤解を生みにくく、「原文ノママ」と言った書き方もあります。矢側氏もこの点について賛同されているので、誤解のないような現本文のような形をオススメします。--蒼天 2007年5月27日 (日) 17:53 (UTC)


蒼天氏へ、貴方も私の質問に対しきちんと答えておられません。もう一回上の私の投稿を読み返してください。

>どうやら根本的な所で他の方と解釈に違いがあるようですね。「非倫理的な文化を持っているという主張」を「道徳的に劣っている」と仮に解釈したしても、それがどうして人種差別になるのですか?時代や政治体制でいくらでも変化していく民族・国家的道徳の話とは分離して考えるべきではないでしょうか?元来人種差別には根拠は存在しないのです。人種であること以外を根拠にしている時点で人種差別とは一線を画すものでしょう。


もう一度桜井氏の主張を良く読んで下さい。『誤解のないように一点だけ注意しておくなら、同項目の「その他活動や言動」には>まるで朝鮮人・中国人が本質的に非倫理的な文化を持っていると主張するかのような発言を行った。と書かれていますが、私は「主張するかのような発言を行った」のではなく「主張している」のです。』と仰られています。彼は「朝鮮人・中国人は本質的に非倫理的」と主張しているのです。あなたの主張?かどうかはわかりませんが「時代や政治体制でいくらでも変化していく民族・国家的道徳」の話をしているのではないのです。先に「>反論についてですが「価値観の相違により相容れないことがある」ことが「人種差別」とまではならないと言っているのです。」への反論にも書いたとおりですので、どうかスルーせずにもう一回読み返してください

また根拠云々についての話ですが、その内容の可否を問わないのなら「根拠」を持った人種差別などいくらでもありますので貴方の主張は間違いです。というよりもそっちの方が主流でしょう。例えば代表的な人種差別主義正当化のイデオロギーである優生学などでは『「優秀な遺伝子」を持つ「白人」が「劣った遺伝子』を持つ「その他の人種」より本質的に優れている。』としていました。その内容の可否を問わないのなら「根拠」はあったわけです。桜井氏のおっしゃる「支那(ママ)・朝鮮の民族的特質」などもこれと似た水準でなら『「根拠」がある。』といえるでしょう。ただ優生学の項目を見れば分かるように、現在ではこのような「根拠」を持ち出すこと自体も人種差別として一般に考えられています。貴方の言うように「根拠があれば良い」といった単純な話ではないのです。

>ところで「日本人を含むそれ以外の民族」とはどこからの出典ですか?どなたかが要出典マークをつけているように、他の話についても出典は全て明らかにしたほうがいいでしょうね。


桜井氏の発言を引用すれば「この事例に限らず人間と獣の間には価値観の共有などありえるわけなが(ママ)なく、今回の悲劇的な事件を教訓に、日本を含む人類普遍的な価値観と「人の命に価値観を持たない」支那(ママ)や朝鮮の価値観は決して相容れるものではないことを私たちは認識しなければなりません。」とあり、日本人以外にも非中国人・非韓国人は全て、中国人や朝鮮人と対比させられています。これも上にある「>日本人から見て非論理的で相容れない価値観としただけで、人種差別とするのは」への反論で触れられていますよ、私の投稿を良く読まれたのですか?


さて、蛇足ですが貴方の誤読に関する弁解に対して

>「ママ」についてですが、中華思想では中国が父(親)、韓国・北朝鮮・ベトナム・日本等周辺国が子です。ですから支那(ママ)という部分がこのように解釈される可能性を示唆しているのです。つまり「ママ=母親」という見方ですね。


あい変らず理解に苦しみます。それでは書籍で一般的表記として支那(ママ)や鮮人(ママ)と使用されているのは何なのでしょうか?それを読んだ人が貴方と同じように『「ママ」についてですが、中華思想では中国が父(親)、韓国・北朝鮮・ベトナム・日本等周辺国が子です。ですから支那(ママ)という部分がこのように解釈される可能性を示唆しているのです。つまり「ママ=母親」という見方ですね。』などと解釈するのでしょうか?また仮に貴方と同じようにこれを「ママ=母親」と誤読する人がいたとしても、どうしてそこからすぐに「中華思想における韓国と中国の立場のようにも見えてしまいます。」などという発想が出てくるのか、貴方は上のように弁解されていますが、仮にそれが正しいとしても一体何処を如何みればこの部分の「父」を、「ママ=母親」と同一の物と捉える(あまり関係はないのかも知れませんが性別も異なりますよね)、上記の様な結論に飛躍できるのか大変疑問です。貴方の主張には『「原文ママ」という意味で書籍上で一般に使用される「~(ママ)」を母親という意味だと解釈』し、更に『この「ママ=母親』を、中華思想における中国の「父』たる立場と同一視する」という二つの致命的誤読・飛躍があります。中華思想云々は関係なく、貴方の文章読解力の問題です222.225.224.99 2007年5月28日 (月) 02:59 (UTC)


理解に苦しむのはあなたです。あなたの目的は明らかに個人攻撃にあり、それは誰の目にも明らかです。それにスルーしているのはあなたです。ウィキペディアの方針については理解されているのでしょうか?メニューとして表示していますので、全部読んでください。そして守っているのかどうかよく考えてください。
私の読解力について云々していますが、矢側氏も賛同し、ママの項目にも出ているように誤解を生みやすい表現であることは一般的なことです。私個人への読解力云々は誹謗中傷ですよ。太字にして強調までしてご苦労様なことです。
書き手がどのように思って書いても、読み手に伝わらないようではボツです。これは執筆の基本です。「自分がわかっているからいい」「読み手が理解できないのがおかしい」という主張は出版界(ウィキペディアでも基本は同じです)では受け入れられません。私のスタンスは矢側氏と全く同じです。違いは中立的でない根拠を述べている点だけです。つまり1以外の案は中立的観点ではないということです。それについてはどのように考えているのですか?いい加減答えてください。
またやたらと私の見解部分の揚げ足取りで自己を正当化しているみたいですが、『朝鮮人・中国人は本質的に非倫理的」と主張』したことは、人種差別には当たりません。もうここは解釈の根本的な相違でしかないですね。それに「非倫理的」という言葉を「道徳的に劣っている」と解釈したのはあなたじゃないですか?「劣っている」という言葉があるほうが人種差別に結び付やすいですからね。ですから道徳について説明したのですが、どうも気に入らないみたいですね。人種差別と道徳の優劣は別だという事が伝わってないみたいです。また「中国・朝鮮人だから非論理的」とか「非論理的である根拠は中国・韓国人である事」と、Doronpaこと桜井氏が主張しているか否かについてはスルーですか?人種差別なら、元々の根拠が何であってもこのような図式も成り立つはずです。また補足しますが、白人の黒人・黄色人種への差別の多くは根拠はありません。遺伝子の問題は後付によるこじつけで、ほとんどの差別主義者は漠然とした理由しかありません。重ねて言いますが、これ以上人種差別についてやりたいなら人種差別の項目に行くことをオススメします。桜井氏の発言とサイトを引用した上で、人種差別かどうかの議論をされてはどうでしょうか?あくまで私はウィキペディアの方針に則った文章にすべきという立場でしかなく、人種差別の意味について争うつもりは毛頭ありません。
あなたはなにがなんでも人種差別という方向に持って行きたいようですが、そのような個人的見解を載せる場所ではありません。異なる見解が存在する時点で、本文にそのような事は書けません。見に来た人に「この人は人種差別主義者」と植えつけたいだけですね。もし桜井氏に反論したいのならば、著書の中で発表してください。一般流通に乗った正規の著書であれば引用した上で「人種差別に当たるのではないかという意見がある」という文章を足すことも可能です。また、Doronpa(桜井氏)は講演などしているので会うことは容易なはずです。blogに返信する形でも抗議をしてもいいじゃないですか。頑張ってください。--蒼天 2007年5月28日 (月) 09:27 (UTC)
「非倫理的」と「道徳的に劣っている」についてですが、論理的な筋は通しているものの独自の仮定や定義・解釈が入っているので、独自の研究になってしまっています。もう少し、客観的な定義を用意できているのだと思っていました。なお、当初私が問題の発言を人種差別的と感じたのは、全く別の理由によるものです(個人の感想ですので、本文に記述するつもりはありません)。また、今の議論について、当事者の一人である私が言うことでないかもしれませんが、発言が長すぎる、繰り返しが多すぎると感じます。 --Yhiroyuki 2007年5月28日 (月) 11:53 (UTC)
既に全体の文字量が多すぎますね。ご指摘のように同じ事を繰り返してるような気もします。もう現メンバーでは平行線になりそうですね。2~6案に賛同する人はいないので、1案を基本という事で結論を出していいと思います。--蒼天 2007年5月28日 (月) 12:24 (UTC)

ネット右翼について[編集]

韓国人や中国人との交流はインターネットの翻訳掲示板のみを使って行っており、ネット右翼に分類される。

この部分の削除理由について説明をお願いします。ポイントは以下の2点です。 
① Doronpa氏は、朝鮮/韓国/中国人とネット経由ではなく、直接に議論をしたことがある。
② 上記の情報で不正確な情報が書かれている。

①②がNoであるなら、削除した理由について説明をお願いします。

以上、よろしくお願いします。 --あずきもなか 2007年5月4日 (金) 14:12 (UTC)

削除したものではありませんが、その文章はおかしいのではないかと。いわゆる「ネット右翼」にそういう傾向があるというのはよく言われますが(大多数の日本人がそうなので、母集団が増えればそうなるのは当たり前では)、「ネット右翼」である理由として読めるように書くのは順番が逆ではないかと。あと、あずきもなかさんのネット右翼の定義はどっからもってきたものなのでしょうか。項目ネット右翼は、コメント依頼とか出てよく分らない状態になっているんで、いましばらくはこの話題は避けた方がいいと思います。--Yhiroyuki 2007年5月4日 (金) 14:46 (UTC)
この部分についてですが、テレビにおける直接の討論を見たことがあります。日本テレビ系の番組「ジェネジャン」で、木村誠名義で出演していました。年齢は放送された2005年1月の時点で32歳です。いくつもの名前がある時点で怪しさは感じますが、それはまた別の問題ですね。いくらなんでも掲示板のみというのは事実誤認ですので書き換えさせていただきます。掲示板のみにこだわって修正する理由を添えてください。またネット右翼はネットでのみ右翼活動をする意味ということではありません。言葉の意味そのものに疑問がありますので、軽々しく使うものではないでしょう。--59.147.14.87 2007年5月12日 (土) 15:19 (UTC)
ジェネジャンとの関わりを調べましたが、レギュラー出演ではなく、「日韓関係の話題?」の放送1回のみのスポット出演とのことでした。製作者側がDoronpaさんを起用した理由も「ネット右翼」の立場と認識しているからだと思いますが、いかがでしょう? また、この1回のみのテレビ出演以外の活動については調査ができませんでした。早急に結論を出す必要はないと思いますが、特に避ける話題でもないと思います。 --あずきもなか 2007年5月18日 (金) 19:07 (UTC)
「韓国人や中国人との交流はインターネットの翻訳掲示板でのみ行っているため、ネット右翼に分類されることも多い」という部分ですが、インターネットの翻訳掲示板で“のみ”交流している=ネット右翼になるような解釈ができるので、表現としておかしいと思われます。広義では属していると思いますので、ネット右翼の記述そのものには賛同します。また、我々が把握しきれていないだけで、韓国人や在日韓国人との直接の交流がないと断言はできないので、交流に関しての明言は避けるべきかと思われます。在日特権を許さない市民の会によると、帰化した人との交流はあるようですね。いかかでしょう?--蒼天 2007年5月19日 (土) 15:49 (UTC)
テレビで活躍の部分ですが、やはりテレビ出演は「ジャネジャン」のスポット参加しかないようですので、「テレビで活躍」の部分を省いておきました。--あずきもなか 2007年7月5日 (木) 10:58 (UTC)
蛇足ですが、英語版の説明は日本語版とだいぶ異なっています。少し、整合性をとられたほうがいいかもしれません。--あずきもなか 2007年7月5日 (木) 10:58 (UTC)

校正・再構成について[編集]

全体的に重複が多かったり、特記する必要のない個人名などが出ていたり、テキストとしてあまりにひどかったので、僭越ながら校正・再構成させていただきました。修正・加筆はこれを元に行っていただければ幸いです。--蒼天 2007年5月22日 (火) 01:31 (UTC)

個人ブログが目立つようだが、第三者の目から見て信頼できるサイトはないのでしょうか?--hyolee2/H.L.LEE 2007年5月26日 (土) 00:25 (UTC)

桜井氏の専門について[編集]

「韓国、中国の近現代史の評論家」と現行の記述にはあり、自身のブログでもそうおっしゃっていますが、桜井氏の大学時代の専攻はこの分野だったのでしょうか?それとも独学なのでしょうか?情報をお持ちの方お願いします。222.225.181.226 2007年5月26日 (土) 05:45 (UTC)

何も大学での専攻のみが対象になるわけではないと思います。経済学部出身の政治評論家も山ほどいます。blog等見る限り、中世や古代についてほとんど語ってないことから、主として近現代に絞って評論文を書いていると判断しました。--蒼天 2007年5月26日 (土) 22:08 (UTC)


大学の専攻と職種の関連性に関する貴方の個人的見解は失礼ながら直接的には私の疑問に対し何ら関連性を持っていません。問題は桜井氏は大学・大学院で韓国もしくは中国の近現代史を専攻されたのか、それとも独学で勉強されたのかという事実に関してのみです。この記事を発展させるために是非情報を提供していただきたいです。222.225.225.227 2007年5月27日 (日) 02:26 (UTC)

重箱の隅をつつくようなことを言いますけど、「韓国」は近代史ではなく、現代史で使われる言葉だと思いますよ。(近代史で使うなら「朝鮮」という表記が正しいです。)--あずきもなか 2007年8月12日 (日) 10:29 (UTC)

肩書きについて異論があるわけではないのですか?私はそのつもりでしたが。異論があるように見えたので、肩書きについては専攻に関係なく著述内容などから、定義づけることができると言いたいだけです。専攻や掲示板参加以前からディレッタントだったかについては知りません。上の返答は全て消しても構いません。--蒼天 2007年5月27日 (日) 04:12 (UTC)


歴史研究家?[編集]

桜井さんは学会などで活動されているかたではありませんので桜井誠(ライター)でよいのではないでしょうか? --あずきもなか 2007年8月18日 (土) 00:25 (UTC)

歴史家であれば、歴史雑誌として実績がある新人物往来社の歴史雑誌への寄稿や、大学の研究機関で働いていた(原田実氏など)実績があってしかるべきですが、現在までの寄稿が「反日マンガの世界」といった、特定アジアないし民族系右派に近い書籍に偏っております。それに彼の文章を読む限りでは、ジャーナリズム的批判精神(政治的立場は云うまでも無いですが)を感じますが、歴史家としての冷静な考察と文章力があるように思いません。本来ならライターが妥当であるとの感じがします。Carpkazu 2007年9月19日 (水) 12:46 (UTC)
どうでもよいことではありますが、新人物往来社の通俗雑誌への寄稿が、歴史家としての実績にあげられることはほとんどありません(『史学雑誌』や『歴史学研究』に掲載されたのなら歴史家といってよいでしょう)し、原田氏に研究機関での履歴があるといっても古田武彦さんのもとでは歴史学研究の実績とは呼べません。一応、注記しておきます。
ただ、桜井氏を歴史研究家とすることは読者の誤解を招きやすく、ライターへ変更することには賛成です。--shimoxx 2008年1月3日 (木) 13:36 (UTC)

研究家の定義ですが必要ですね。研究とは、物事を詳しく調べたり、深く考えたりして、事実や真理などを明らかにすることです。接尾語「-家」は、そのことに従事している人であることを表します。「研究家」というのは肩書きであって、資格でも職業でもないです。上記の通りであれば桜井誠もその範囲ではないでしょうか。--wkb 2009年2月23日 (月) 14:15 (UTC)

Category:日本の歴史学者のカテゴリが外され、定義の肩書きからも歴史家は外されているのにタイトルのカッコの中が「歴史研究家」なのはおかしいので桜井誠 (作家)に移動しました。--コバルトブルーとターコイズブルー 2009年6月20日 (土) 06:25 (UTC)

「支那人は人間として最低の屑ですが、朝鮮人と違って馬鹿ではありません」発言に関して[編集]

ここまで言っても人種差別やエスノセントリズムに当たらないのですか?正直なところ理解に苦しみます。222.225.108.56 2007年8月2日 (木) 06:39 (UTC)

桜井氏はレイシストではないとおっしゃる人たちへ、それではどんなことをどの程度まで言えばレイシズムになるのかという定義を客観的に示してください。まあ少なくともそちら流の定義によれば「支那人は人間として最低の屑」程度ではレイシズムにはならないのでしょうが。もしかしてどんな事を言おうが本人が「これはレイシズムではない!」と言い張ればレイシズムではないとでもおっしゃられるのですか?222.225.108.56 2007年8月2日 (木) 06:47 (UTC)

Wikipedia:井戸端/subj/「発表済みの情報の合成」禁止の例外で最近行われた議論によると、「桜井氏の発言はレイシズム」であるとする直接の出展が無いと、記述は無理そうです。3段論法もだめだそうです。--Yhiroyuki 2007年8月3日 (金) 12:05 (UTC)
これでは話になりませんね。議論内容を見ましたが、何を発言しようが問題視されない免罪符と化している。--121.1.164.230 2007年8月10日 (金) 03:24 (UTC)

レイシストの定義が無い以上、水掛け論に終わってしまいますよ。まずは、レイシズムの定義をして、その上で、桜井さんの発言内容を提示してください。--あずきもなか 2007年8月12日 (日) 10:30 (UTC)

レイシズム及び行為者の定義についてはリンク先をご確認下さい。--202.208.158.63 2007年9月1日 (土) 05:09 (UTC)

中国人や韓国人が日本人に対して示しているような考え方のほうが余程人種差別に当たるでしょうね。自らを人種・民族的に優れ、他は劣るという考え方は民族意識を持たせる教育をしている国では珍しくはないので、それすら人種差別とは違うという意見さえあります。つまり定義は極めて曖昧なので、特定の誰かを勝手に認定するのは控えるべきでしょうね。--61.44.75.99 2007年8月12日 (日) 20:51 (UTC)

そんなものがあるのですか?>“中国人や韓国人が日本人に対して示しているような考え方” 実証されていないものをさも存在するような書き方は民族差別となりますよ。人間として最も忌むべき行為です。--202.208.158.63 2007年9月1日 (土) 05:07 (UTC)
横槍を入れるようですが、「華夷思想」や「小中華思想」はご存知ないのでしょうか?韓国人が併合を屈辱的と考える背景には文化後進国だと思い込み、蔑んでいた国に併合されたというのも大きく作用しています。決してこれらの思想は幻想ではありません。小日本倭奴といった蔑称はマスコミでさえ使う有様です。韓国のマスコミで天皇の事を日王と記していることからもわかるように、全ては思想的な問題からきています。--蒼天 2007年9月1日 (土) 06:01 (UTC)
自国を他国民から批判されると誇りを傷つけられたように感じて我慢ならなくなるのは、典型的右翼覇権主義の思想ですよ。他国の態度がどうとかではなく、日本・日本人もそれは同じ。--202.208.158.129 2008年1月26日 (土) 02:15 (UTC)

批判か罵倒か[編集]

『クズ』『獣』という呼称で相手を呼ぶのは批判と言うよりは罵倒と見做すべきですので、書き換えました。222.225.109.17 2007年10月21日 (日) 09:41 (UTC)

批判とか罵倒とかはどちらでもなく、単に「~と発言した」「~という姿勢を見せている」「~の立場である」でいいと思います。「~という罵倒的な発言をした」「~という見下した発言をした」「~という狂ったような姿勢である」とかですと、主観的な色が強いと思います。形容詞はあまり使わず、単に発言したという事実だけを書いて、後は読む人の判断に任せるのが最善だと思います。--竹島は日本 2007年10月27日 (土) 09:39 (UTC)

ブログ文章の転載について[編集]

保護依頼が出ていたので履歴を見たところ、編集合戦よりも、IP氏がブログの文章を転載している箇所を差し戻しているのが見つかったので、とりあえず半保護をかけました。削除依頼を出そうとして履歴をさかのぼりましたが、どこからの特定版削除を依頼すべきか迷うので、依頼提出を保留してこのノートにてお聞きします:ブログ文章転載について、「引用の要件」をみたしていないためとして特定版削除を依頼すべきではないでしょうか+もし依頼するなら、どの版から依頼すべきでしょうか?--miya 2008年4月21日 (月) 04:19 (UTC)                                                  

保護中のメモ[編集]

1972年、福岡県出身(m9・Vol.3より)。記事には本人近影もあり。--121.1.162.234 2008年11月13日 (木) 12:06 (UTC)

保護依頼[編集]

記事内容について現状に即して書いたところ、加筆ではなく差し戻しにあいましたので、保護依頼を出そうと思います。--People48 2009年2月7日 (土) 15:33 (UTC)

外国人全般への蔑視感[編集]

桜井誠のブログで数多くの「在日」以外への抗議活動も報告されている上、外国人全般を対象とし始めている事実も記すべきかと思います。「白人女」「人民裁判にかけろ」という氏自身のブログでの記述は、社会通念上、外国人への差別意識が強度な言葉であり、暴力性も顕著です。 なお、秋葉原をはじめ暴行などが伴っている行動の責任者責任もあわせて問題ですが、この事を消したがる人が今後出るとしたら、度量が小さい、都合悪いことを消したいだけと誤解されますので気をつけて下さい。--柏餅1969 2009年11月2日 (月) 06:57 (UTC)

右翼活動家[編集]

右翼活動家などというへんてこりんな表現がありますが、この事を表示したがる人も今後出るとしたら、度量が小さい、都合悪いことを消したいだけと誤解されますのでこれも気をつけて下さい(笑)。--監視部 2009年11月2日 (月) 14:41 (UTC)

監視部さんの文は日本語として全く意味を成してないですね(笑)。桜井氏ご自身は、社会通念上「右翼」的な街宣活動を自ら発表されていますが、違うとなるといわゆる左翼とされる市民活動家で良いのでしょうか?--People48 2009年11月3日 (火) 13:01 (UTC)

人権認識の節[編集]

出典としてブログを挙げていますが、該当する動画が存在しなおかつその動画が桜井が会長を務める在日特権を許さない市民の会が自らアップロードしたものであれば、それを出典として使うのが望ましいと思います。個人ブログは基本的に信頼できる情報源とはみなされないので不適切です。

また、桜井の罵倒を取り上げていますが、単なる暴言集のようなものを作る意味はありません。もし桜井の発言を取り上げたいのなら、「思想・発言」のような節を新設し、暴言は一部のみ(短い意味のない言葉は必要ないです)にして、彼自身の思想を反映したものを取り上げる、などはいかがでしょう。桜井には著作もあるようですし、ある程度の量は収集できるかと思います。--グラン 2010年3月6日 (土) 16:26 (UTC)

黒軽部というニックネーム[編集]

存命人物の伝記の方針では、否定的で出典のない記事は即時除去すべきとされています。 しかし、この要出典タグつきの記述は、否定的であるかどうか一概に判断できません。 たとえば否定的な記述とは、「頭が悪い」「人格に問題あり」などであり、一目見て誰もがそう判断できるものです。 ですが、この記述「ニックネームは黒軽部」は、一目見てもそれが否定的なのか肯定的なのかはっきりいって判断できません。 信頼のある情報源において「黒軽部とは桜井誠に関する否定的なニュアンスのニックネームである」という証明がされれば除去すべきですが、今のところどういうニュアンスなのか簡単には断定できないと考えます。 編集者のスタンスも不明ですし、要出典タグが貼りつけられたものだからといって簡単に除去するのはおかしい。否定的なニュアンスだと桜井誠本人や信頼できる情報源(たとえばこのニックネームを考えた人物)からの情報で断定できるときにはじめて除去すべきです。--グラン 2010年3月7日 (日) 08:56 (UTC)

存命人物の伝記の方針では、ソースのないものは削除対象です。このページの上にある、「論争の元となり得る記述については、出典が明記されていなかったり、信頼性に乏しい情報源を出典としている場合、直ちに除去しなければなりません」を読んでください。ニックネームでも、「黒」というのは、過去の歴史的用法でも、否定的に使われているので否定的用法と考えるべきだと思います。また、存命人物の伝記の方針は、1.ソースのない否定的情報は「即時」削除対象、2.ソースがない否定的でない情報「も」削除対象です。したがって、否定的であるかどうかの証明がないかどうかは、関係ありません。削除するタイミングが異なるだけです。このニックネームは即時削除でいいと思います。Nakata88 2010年3月7日 (日) 16:47 (UTC)

了解しました。論争の元となる情報に当てはまるでしょうね。--グラン 2010年3月7日 (日) 17:16 (UTC)

桜井誠 (作家) という表現について[編集]

どこでどうなって(作家)という肩書きがつくようになったのでしょうか? 本人が作家だと自称するのは問題ないと思いますがこのサイトはまがりなりにも百科事典という位置づけですから作家という肩書きは削除すべきだと思います。--以上の署名のないコメントは、114.51.145.88会話/Whois)さんが 2010年4月29日 (木) 20:29 (UTC) に投稿したものです。

当初「桜井誠 (Doronpa)」からDoronpa、「_(歴史研究家)」に移動され、検証可能なこの人物に関する情報が、『嫌韓流ハンドブック』の著者ということだったので「_(歴史研究家)」から「_(作家)」となっています。在特会の活動家としての方が特筆性があり「_(社会運動家)」の方が相応しいなどということであれば改名提案して下さい。johncapistrano 2010年5月1日 (土) 10:11 (UTC)

綿密な取材を通して事実を客観的に叙述するというという姿勢でもなく文筆活動により何かを創作、叙述することを生業としているわけでもないのにもかかわらず作家と表現するのは相応しくないと思われます。

著作物があれば誰もが作家かといえばそうではありません。作家という表現は極力、避けるべきだと思います。

著作物があるという点を前面に出したいのであれば「ライター」になると思いますが桜井市の肩書きを客観的に表現しているのか疑問が残ります。

やはり世間的には在特会会長という位置づけでみていると思われますので(在特会会長)、「_(社会運動家)」というのも在特会参加者が刑事事件を引き起こしていることからして公益というニュアンスを含む社会運動家という表現も相応しくないと考えます。だからといってネガティブな表現も慎むべきだと思いますので「_(活動家)」と表現するのがぴったりだと思います。

従って肩書きをつけたいのであれば(在特会会長)もしくは(活動家)になると思います。--以上の署名のないコメントは、114.51.128.88会話/Whois)さんが 2010年5月1日 (土) 13:56 (UTC) に投稿したものです。

在特会会長というのは自己言及的身分で、カテゴリとして不適だと思われます。団体代表ぐらいならいいかもしれませんし、団体代表の桜井誠が複数いるとかいうのであれば可だとは思いますが。作家といっても曾野綾子と大江健三郎の対決もありますし、必ずしも綿密な取材や事実を客観的に叙述するということはないでしょう。社会活動家にも笹川良一みたいな人もいますのでまた然り、です。johncapistrano 2010年5月1日 (土) 14:43 (UTC)

曾野綾子、大江健三郎、笹川良一に関しても桜井氏とはまったく種類の異なる人間ですので例えがあまりピンとこないものがありますが作家という言葉は実態にそぐわないので「社会活動家」から社会をとった「_(活動家)」でいいと思います。


本人の自作なのですか? _(社会運動家)でもなければ_(作家)でも_(歴史研究家)でもないでしょう。

不快なのではやく虚偽の肩書きを削除してください。--以上の署名のないコメントは、114.51.132.155 会話投稿記録)さんが 2010年5月4日 (水) 11:47 (UTC) に投稿したものです。

とりあえず改名提案しました。桜井誠への変更は同姓同名の桜井誠 (挿絵画家)がおられるので、無理ですが肩書については下記で議論してください。--鯉華厨師 2010年5月5日 (水) 09:43 (UTC)

桜井に対し作家という表記を使うのは社会通念から外れてると思われる。 例えば、西尾幹二は一般向けの著作が多数あるが、作家とはされていない。 芸能人が自伝を書いたからといって、「作家」と自称したりはしないし、周囲が彼を作家とみなす事もない。 在特会会長がその活動の一環として、作家活動をしたからといって、ことさら「作家」とレッテル張りをする必要はない。社会運動家もおかしい。それをいうなら西尾幹二も社会運動家だろう。 在特会会長が物を書き、社会運動をしているのだから、在特会会長という肩書きだけで他は不要である。

この記事のタイトルについては今後は#記事のタイトルについてで議論して下さい。--116.82.195.180 2010年6月10日 (木) 10:13 (UTC)

改名提案[編集]

桜井誠氏の肩書について再度論争になっていますが、最近の桜井氏の活動を報じた朝日新聞など新聞報道を見ると在特会の活動が多いです。その活動については賛否があると思いますが「(作家)」の部分を「(社会運動家)」に変更することを提案します。--鯉華厨師 2010年5月5日 (水) 01:39 (UTC)

反対意見がつかなかったので、改名実行しました。今後桜井氏の活動内容が変わった場合には、そのとき再度検討しましょう。--鯉華厨師 2010年5月22日 (土) 14:44 (UTC)
この記事のタイトルについては今後は#記事のタイトルについてで議論して下さい。--116.82.195.180 2010年6月10日 (木) 10:13 (UTC)

社会運動家という表現について[編集]

社会運動家のという言葉には「社会貢献のための活動をする人」という意味が含まれています。

桜井氏の一連の動画をみてると障害者に生きる価値がない、ビルから飛び降りて死ねなどの暴言を吐いた動画を自らの勇ましさを誇示するために公開して人道的見地から批判を受けると同時に一定の層からは熱烈な支持を受けています。

彼の主催する在日特権を許さない市民の会は徳島県教職員組合から刑事告訴、 戸田ひさよし元市議会議員から刑事告訴、京都弁護士会から朝鮮学校に対する嫌がらせに関する会長声明を発表されています。 この一連の騒動でも一定の層からは熱烈な支持を受けていますがあくまでも一部の一定の層からの話です。 当然社会で容認されるべきものではない行動です。 従って社会運動家というよりも反社会運動家という表現が一般的には妥当だと思われます。

しかし桜井氏の運動を支持する人達からすると社会運動になるでしょうし建前では本人もそう思っているでしょうから 社会という文字を抜いて「運動家」これだとスポーツ選手と間違われるという意見があれば「活動家」、「反在日朝鮮人活動家」、「桜井誠_アンチ在日朝鮮人」、「桜井誠_在日朝鮮人嫌悪」のいずれかにすべきだと思います。

こうすることで反社会的活動だと思っている人も社会的活動だと思っている人も納得します。

2010年5月24日 (月) 20:57 (UTC)

この記事のタイトルについては今後は#記事のタイトルについてで議論して下さい。--116.82.195.180 2010年6月10日 (木) 10:13 (UTC)

編集される方へ[編集]

在特会の会員の方か桜井氏本人だと思いますが、「自称情報強者が思う在日朝鮮人の真実」を告発したいなら2ちゃんねるでしてください。ここでは客観的事実だけを書くようにすべきだと思います。

記事のタイトルについて[編集]

鯉華厨師さんによって「反対意見がつかなかったので」桜井誠_(社会運動家)へ改名されましたが、その後もIP:210.130.48.214会話 / 投稿記録 / 記録 / WhoisさんやIP:121.103.66.131会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisさんによって反対意見が提出されているので、改めてどのタイトルがふさわしいか議論をする必要があると私は考えます。参考までにこの記事はIP:219.110.187.114会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisさんによって「桜井誠_(Doronpa)」の項目名で新規執筆、その後LuckyStar KidさんによってDoronpaに移動(理由は不明)、次いで竹島は日本さんによって「桜井誠_(歴史研究家)」に移動(理由は「Doronpa」は自身のホームページ上以外殆ど見られなくなったため)、さらにコバルトブルーとターコイズブルーさんによって「桜井誠_(作家)」に移動(理由は「桜井誠_(歴史研究家)」より「桜井誠_(作家)」の方が記事の定義・登録カテゴリにふさわしいため)、そして鯉華厨師さんによって桜井誠_(社会運動家)に移動されました(理由は文筆活動より在特会の活動が多いため)。なお今まで挙げたタイトルの案とその反対意見をまとめてみると:

となります。故にこの記事は:

  1. 「桜井誠_(活動家)」か「桜井誠_(団体代表)」に移動する
  2. 現在曖昧さ回避となっている桜井誠を削除し、現在の「桜井誠_(社会運動家)」を括弧なしの「桜井誠」に移動する(桜井誠_(挿絵画家)へはOtherusesで誘導しておく)
  3. カッコ内に肩書きを入れるのをやめ、出身地或いは生年で区別する - この場合、「桜井誠_(社会運動家)」は「桜井誠_(福岡県出身)」或いは「桜井誠_(1972年生)」に、「桜井誠_(挿絵画家)」は「桜井誠_(静岡県出身)」或いは「桜井誠_(1912年生)」にそれぞれ移動する。
  4. Wikipedia:特筆性_(人物)を満たさない記事ということでWikipedia:削除依頼に提出する - ノート:伊藤哲也_(作家)での議論では伊藤哲也_(作家)は特筆性に欠けるとの意見が日虎隊さん及び経済準学士さんより出ているが、コバルトブルーとターコイズブルーさんによると特筆性が伊藤哲也氏と同程度の桜井誠氏も特筆性に欠けるということになり、ウィキペディア上に記事があること自体に疑問が生じるため。

以上の4案の中からいずれかを選択した方がよいと思います。--116.82.195.180 2010年6月10日 (木) 10:13 (UTC)

「桜井誠(活動家)」がふさわしいと思います。桜井誠という姓名の団体代表は、他にも複数いると思われ、項目名としてあいまいです。--Brackcandy 2010年6月15日 (火) 02:28 (UTC)

桜井誠の記事を編集してる方に質問。 世間の認知と乖離した好意的な表現を使いたがるのはなぜなのでしょうか。 桜井誠(作家)としてみたり桜井誠(社会活動家)としてみたり。

(歴史研究家)を(作家)に移動した者ですが、桜井誠_(活動家)に移動しました。--コバルトブルーとターコイズブルー 2010年7月18日 (日) 07:36 (UTC)

  • この意見は完全にPOVだと思います。

* 桜井誠_(社会運動家) - 在特会参加者が刑事事件を引き起こしている、在特会会長が物を書き社会運動をしているだけ、社会で容認されるべきものではない行動をとっている

違法行為を率先してやっているわけでもないわけですし、会員が刑事事件を起こしているというなら自民党などもそうなります。ノートの記述ですが見逃せません。
  • 肩書きについては、団体代表が妥当だと思います。もっとも中立的ですし、他に団体代表が今いない現状で、名目の重複を配慮する必要はありません。活動家は、個人の活動がメインの場合なら妥当ですが団体として活動している以上、より団体代表が適切だと思います。Nakata88 2010年7月20日 (火) 01:21 (UTC)

タイトル名について提起した者です。関連する議論をWikipedia:井戸端/subj/人名の曖昧さ回避は平等にするべきではないかにも提起しましたので、参考までに読んで頂けたら幸いです。--116.82.195.180 2010年7月24日 (土) 04:25 (UTC)

  • 活動家という表現はどうなんでしょうか?活動家=社会活動家にも思われます。しかし活動内容自体が中立的な活動ではないので、ここで活動家を名乗るにはおこがましいと思います。(団体代表)もしくは(団体会長)、(在特会会長)が無難だと思います。客観的には(新興宗教教祖)にも見えますけど。--223.133.56.98 2010年10月20日 (水) 06:19 (UTC)

この人、一般人ですよね?[編集]

Wikipedia‐ノート:特筆性 (人物)#宣伝目的の防止に内容が偏っていませんでしょうか?でも議論を提起しましたが、どう考えてもこの人は一般人ですよね。桜井誠氏は芸能人でもなければ話題をネタにした個人事業主でもない、政治活動をし、本を著し、ブログを書いているだけの一般人です。このような一般人の記事がウィキペディアでは必要なのでしょうか? 私個人の考えでは、桜井誠氏の特筆性なんて、大向美咲さんの特筆性以下でしょう。肩書き云々よりもそろそろこの人物自体の特筆性を議論した方がいいかと思います。--115.176.166.140 2010年10月2日 (土) 03:19 (UTC)


削除議論でも同じことを書きました。そもそも、この方は何か功績があるのでしょうか?単なるネット右翼にしか思えません。草の根運動で、特筆的な結果があるのですか?そんな方をWikipediaに載せるのは売名行為にしか思えません。桜井氏が言ってることも信憑性も定かではないですし。昨今、逮捕者続出の在特会自体、カルト教団にしか見えません。同じ右翼・保守でも赤尾敏氏とか野村秋介氏など、一般的に特筆性を感じますが。--223.133.56.98 2010年10月20日 (水) 06:05 (UTC)

講談社の雑誌を巡る金子誠中間さんの編集[編集]

金子誠中間さんは、NYタイムスの記事を税理士と訳すのは誤訳であるとされていますが、これ自体が二次ソースで確認できないなら、この記述は独自研究になります。また、講談社の雑誌の記載とNYタイムスの記事のどちらが信用できるかを判断するもの独自研究です。さらに、桜井氏が訴訟をしていないことから記載を認めているかのような記述もありますがこれも独自研究ですし、また、この記載自体が名誉毀損や民事上の責任が生じるおそれがあります。総じて、講談社の雑誌を二次ソースとして扱えるとしても、表現が中立的でない、独自研究が多く見られるなどの問題があります。よろしくご検討願います。Nakata88 2010年12月8日 (水) 08:32 (UTC)

Nakata88さんはもしかして桜井誠氏ご本人ですか?そもそも桜井氏(自称)は政治団体主導者でみなし公人で、私人とはプライバシーへの解釈が異なります。さらに、講談社が事実を適時した情報であり、出身や生い立ちの経歴は何をどう解釈しても名誉毀損になりません。本名すら明らかにしていない講談社の報道のどこが名誉毀損、民事上の責任になるのか一切意味不明です。別に犯歴とか「隠したい情報」じゃないでしょう?よってWikipediaは法的責任を負いません。その怖れもありません。残念でした。この情報記載が否定されるのは、最高裁で「桜井氏の経歴紹介は憲法、法令違反」という命令が講談社になされない限りは、広く公知されるべき情報です。ぜひ日弁連、あるいは人権擁護委員会に聞いてみてください。あなたの解釈は絶対に一蹴されます。何度でも言います。桜井氏は私人でないですし、本名すら明らかにしていない雑誌の経歴情報の参照程度で本人になんの「民事上の不利益」が存在するのでしょうか???根拠となる法律が日本に存在しないでしょう。あと、私はアメリカに長く在住していましたが、税理士と訳すのは誤訳です。江戸川区や税務署からの税金等の委託徴収員もひっくるめて全て税金関係の手続きにつく人に適用できます。嘘だと想うならネイティブに聞いてみてくださいね。--金子誠中間 2010年12月12日 (日) 03:25 (UTC)
  • 記述に対するご返答が遅れました。一般論として、金子誠中間さんの独自の解釈は、ウィキペディアでは「独自研究」になるということをご確認ください。Wikipedia:存命人物の伝記#公人・著名人を熟読願います。もし、ソースが対立する場合は、両方載せるのが基本的な解決方法です。法的な問題についても、訴訟していなければ認めたことにもなりません。時効期間内であれば訴訟は提起できますし、その出版物が販売される限りそれに対しての訴訟は当然可能です。さらに、公人であっても名誉毀損などは、成立要件で絞られるだけで成立しないわけではありません。金子誠中間さんが何のソースにも依拠せず、断言的に書いてしまえば、その責任は金子誠中間さんに行きます。ご注意願います。Nakata88 2011年2月17日 (木) 15:13 (UTC)