ナリク

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ナリクNaliqu, Nalïqu, Nalïγu, ペルシア語: ناليقو Nālīqū、? - 1309年)は、チャガタイ・ウルスの第13代君主(在位:1308年 - 1309年)。1504年ムハンマド・シャイバーニー・ハンの命によって編纂された『勝利の書なる選ばれたる諸史』(Tawārīkh-i Guzīda-yi Nuṣrat Nāma)[1]など後代の一部史料ではタリクタリグ、 تاليغو Tālīghū)としている場合もあるが、14世紀以降に編纂された『集史』『五族譜(Shu'ab-i Panjgāna)』『高貴系譜(Mu'izz al-Ansāb)』などの史料では、おおよその場合「リク」( ناليقو Nālīqū)としているため、本項目でも「ナリク」とする。

概要[編集]

チャガタイの孫であるブリの孫で、カダカイ・セチェンの息子である。ケルマーン・カラヒタイ朝君主ルクヌッディーン王女トゥルカーンを母に持ち、彼はイスラム教を信仰していた[2]

1308年にゴンチェクが死去すると、ドゥア一門に適当な後継者がいなかったため、チャガタイ家の長老格である彼がハンに即位した[3]。即位後はイスラム教の保護を推進すると共に、ドゥアの一族とドゥア派のアミール(貴族)を圧迫したため、ナリクの従兄弟であるオルグがドゥア家の人間の即位を要求して挙兵した[4]。ナリクはオルグを敗死させ、ブカ・テムル・ハンの孫ヤサウルを初めとした諸王の反抗も鎮圧する[5]

ヒジュラ暦708年(1308年 - 1309年)、ドゥアの子の一人ケベクは、ナリクに仕えていたドゥア派のアミール達に助けを求め、ウーザン・バートルらアミール達は求めに応じた[6]。アミール達によって祝宴の席に火が放たれ、酔いつぶれていたナリクと諸将は殺害された[7][8]

家系[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 赤坂恒明「『勝利の書なる選ばれたる諸史』「ジュチ紀」」『ジュチ裔諸政権史の研究』風間書房、2005年2月、50-51頁
  2. ^ 加藤『ティームール朝成立史の研究』、37頁
  3. ^ 加藤『ティームール朝成立史の研究』、37,47-48頁
  4. ^ 加藤『ティームール朝成立史の研究』、37,48頁
  5. ^ 加藤『ティームール朝成立史の研究』、48頁
  6. ^ 加藤『ティームール朝成立史の研究』、49頁
  7. ^ 加藤『ティームール朝成立史の研究』、37,49頁
  8. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』6巻、230-231頁

参考文献[編集]

  • 加藤和秀『ティームール朝成立史の研究』(北海道大学図書刊行会, 1999年2月)
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』6巻(佐口透訳注、東洋文庫、平凡社、1979年11月)

関連書籍[編集]

  • 以下の書籍にチャガタイ・ハン国の君主の系図が収録されている。
  1. 小松久男(編)『中央ユーラシア史』(新版 世界各国史4)山川出版社、2000年
  2. 小松久男・梅村坦・宇山智彦・帯谷知可・堀川徹(編)『中央ユーラシアを知る事典』平凡社、2005年
先代:
ゴンチェク
チャガタイ・ハン国の君主
1308年 - 1309年
次代:
エセン・ブカ