ドルー

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Dreux


行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏
(département) ウール=エ=ロワール県
(arrondissement) ドルー郡
小郡 (canton) 3
INSEEコード 28134
郵便番号 28100
市長任期 ジェラール・アムル
2001年 - 2008年
人口動態
人口 31 849人
2006年
人口密度 1 312人/km2
地理
座標 北緯48度44分14秒 東経1度21分59秒 / 北緯48.737222度 東経1.366389度 / 48.737222; 1.366389座標: 北緯48度44分14秒 東経1度21分59秒 / 北緯48.737222度 東経1.366389度 / 48.737222; 1.366389
標高 平均:m
最低:75m
最高:139 m
面積 24.27km2 (2 421ha)
Dreuxの位置(フランス内)
Dreux
Dreux
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ドルーDreux)は、フランスサントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏ウール=エ=ロワール県のコミューン。

政治[編集]

ドルーは、1983年の国政選挙で注目を集めた。極右政党である国民戦線が初めて市議会で第一党となり、副市長を出したのである。当時、目に見える失業と移民社会(特にイスラム教徒)とにつながる不満が突出したとされた。

歴史[編集]

中世、ドルーはドルー伯の本拠地であった。ユグノー戦争における最初の大規模な戦いである、ドルーの戦いen)が1562年12月19日に起き、カトリック勢力を率いたアンヌ・ド・モンモランシーが辛くも勝利をおさめた。

ドルーの王室礼拝堂[編集]

フランス革命以前のフランスで、ブルボン=パンティエーヴル家(ルイ14世の庶子であるトゥールーズ伯ルイ・アレクサンドルに始まる家系)は大土地所有者の一人であった。1775年、ドルー伯領は、ルイ16世によってパンティエーヴル公ルイ・ジャンへ与えられた。

サン=ルイ王室礼拝堂

1783年、ルイ・ジャンは所有していたランブイエ城en)をルイ16世へ売却した。同年の11月25日、長い信仰の過程をへて、パンティエーヴル公ルイ・ジャンは9つの棺(父ルイ・アレクサンドル、母マリー・ヴィクトワール、妻でモデナ公女のマリー・テレーズ、そして自身の7人の子供たちのうち6人の棺が含まれていた)を、ランブイエ城の隣からサンテティエンヌ・ド・ドルー教会へ移した[1]。ルイ・ジャンは1793年3月に亡くなり、彼の遺体は両親の眠る納骨堂に安置された。フランス革命中期であった同年の11月21日、暴徒が納骨堂を荒らし、10あった遺体を同教会の一般墓地へ投げ込んだ。

1816年、ルイ・ジャンのただ一人生き残っていた娘で、オルレアン公爵夫人のルイーズ・マリーは、生家の終の棲家として、一般墓地の場所に新たな礼拝堂を建設した。1830年、ルイーズ・マリーの長男でフランス王となったルイ・フィリップは礼拝堂を『ドルー王室礼拝堂』(Chapelle royale de Dreux、正式にはサン=ルイ王室礼拝堂chapelle royale Saint-Louis)と改名して美しく飾り立てた。現在、この礼拝堂はオルレアン家の埋葬地となっている。

新たに作られた礼拝堂には、オルレアン家の75人の人々が埋葬されている。

姉妹都市[編集]

出身者[編集]

参照[編集]

  1. ^ G. Lenotre, Le Château de Rambouillet, six siècles d'histoire, Calmann-Lévy, Paris, 1930, reprint: Denoël, Paris, 1984, (215 pages), chapter 5: Le prince des pauvres, pp. 78-79
  2. ^ この礼拝堂内にはルイ・アレクサンドルの妃であったランバル公妃マリー・ルイーズは埋葬されていない。彼女はフランス革命最中の1793年9月3日にパリのラ・フォルス監獄で殺害された。遺体はアンファン=トルヴェ墓地へ埋葬されたが、後に遺体の判別ができなくなった: Michel de Decker, La Princesse de Lamballe, Librairie Académique Perrin, Collection historique dirigée par André Castelot, Paris, 1979, chapter XII: Ils sont blanchis par le malheur, p. 265.

外部リンク[編集]