ダグラス・ジェラード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Douglas Gerrard
ダグラス・ジェラード
本名 ダグラス・ジェラード・マックマロー・カヴァナ Douglas Gerrard McMurrough Kavanagh
生年月日 (1891-08-12) 1891年8月12日
没年月日 (1950-06-05) 1950年6月5日(58歳没)
出生地 アイルランドの旗 アイルランド ダブリンアイルランド
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス市ハリウッド
職業 映画監督俳優
ジャンル サイレント映画トーキー
活動期間 1913年 - 1949年
著名な家族 チャールズ・K・ジェラード
テンプレートを表示

ダグラス・ジェラードDouglas Gerrard, 1891年8月12日 - 1950年6月5日)は、アイルランド出身のアメリカ合衆国映画監督俳優である[1]。出生名はダグラス・ジェラード・マックマロー・カヴァナDouglas Gerrard McMurrough Kavanagh[1]

人物・来歴[編集]

1891年(明治24年)8月12日、アイルランドのダブリンに生まれる[1]。5歳年長の兄はのちにアメリカで映画俳優となるチャールズ・K・ジェラードである[1][2]

満22歳を迎える1913年(大正2年)、アメリカのユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に入社、フィリップス・スモーリーロイス・ウェバーの夫妻が共同監督したサイレント映画 Suspense に出演する[1]

1916年(大正5年)、監督としてデビュー、自らの主演作を多く手がける[1]。1918年(大正7年)、監督業に専念、ユニヴァーサル社の子会社・ブルーバード映画で、同年の『孤松の唄』、『報酬五千弗』、『秘密の家』、Playthings 、『血の叫び』、『唄女』、翌1919年(大正8年)の『巌封の密者』と7本を監督[1]、1作を除いていずれも日本でも公開されている[3]

1920年(大正9年)、監督業を廃業、俳優業に専念する[1]。以降、サイレントからトーキーとなり、クレジットされない端役となっても、最晩年まで出演をつづけた[1]

1950年(昭和25年)6月5日カリフォルニア州ロサンゼルス市ハリウッドで死去した[1]。満58歳没。

おもなフィルモグラフィ[編集]

関連事項[編集]

[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j Douglas Gerrard, Internet Movie Database (英語), 2010年5月13日閲覧。
  2. ^ Charles K. Gerrard - IMDb(英語), 2010年5月13日閲覧。
  3. ^ 『ブルーバード映画の記録』 : 製作・著・発行山中十志雄・塚田嘉信、1984年4月、p.60-63.

外部リンク[編集]