ヘンリー・オットー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Henry Otto
ヘンリー・オットー
ヘンリー・オットー
別名義 ヘンリー・W・オットー
Henry W. Otto
生年月日 (1877-08-08) 1877年8月8日
没年月日 (1952-08-03) 1952年8月3日(74歳没)
出生地 アメリカ合衆国 ミズーリ州セントルイス
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス市
職業 映画監督脚本家俳優映画プロデューサー
ジャンル サイレント映画
活動期間 1911年 - 1942年
主な作品
ダンテ地獄篇
テンプレートを表示

ヘンリー・オットーHenry Otto, 1877年8月8日 - 1952年8月3日)は、アメリカ合衆国映画監督脚本家俳優映画プロデューサーである[1]ヘンリー・W・オットーHenry W. Otto)とも名乗った[1]ヘンリー・オットーHenry Otho[2]とは別人。

人物・来歴[編集]

ミズーリ州セントルイスに生まれる[1]

現存している記録で最初に映画史上に登場するのは、1911年、短篇映画を量産したセリグ・ポリスコープ・カンパニーでの脚本家としてのキャリアである[1]ジョゼフ・A・ゴールデンが監督する短篇映画の脚本を書き、1912年からはトム・リケッツの監督する短篇映画に出演している[1]。同年には、 The Employer's Liability で監督業に進出し、出演もした[1]C・J・ウィリアムズ作品の脚本を書き、レム・B・パーカーコリン・キャンベルE・A・マーティンフレッド・ハントリーらの作品に出演、自らも監督をした[1]

1914年、アメリカン・フィルム・マニュファクチャリング・カンパニーに移籍して監督に専念、第1作はThis Is th' Life であった[1]。1915年、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に移籍、第1作は The Measure of Leon Du Bray であった[1]。1916年、同社の子会社として設立された製作会社・ブルーバード映画で監督した『美人島』は、日本で最初に公開されたブルーバード映画であった[3]。同年、ユニヴァーサルを離れてヨーク・フィルム・カンパニーに移籍、第1作 The River of Romanceメトロ・ゴールドウィン・メイヤーが配給した[1]。以降、多くインディペンデントの製作会社で監督、1924年(大正13年)に監督した『ダンテ地獄篇』が代表作とされる[4]。1930年代には俳優に戻っていった[1]

1952年8月3日、カリフォルニア州ロサンゼルス市で死去した[1]。満74歳没。

フィルモグラフィ[編集]

特筆以外はすべて監督である[1]

関連事項[編集]

[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m Henry Otto, Internet Movie Database (英語), 2010年4月16日閲覧。
  2. ^ Henry Otho - IMDb(英語), 2010年4月16日閲覧。
  3. ^ 『ブルーバード映画の記録』、製作・著・発行山中十志雄・塚田嘉信、1984年4月、p.2.
  4. ^ Henry Otto, allmovie, 2010年4月16日閲覧。

外部リンク[編集]