スペイン第一共和政

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スペイン共和国
República Española (スペイン語)
スペイン 1873年 - 1874年 スペイン王政復古
スペインの国旗 スペインの国章
国旗国章
国の標語: Plus Ultra(ラテン語)
更なる前進
スペインの位置
スペインとその植民地(1873年)
公用語 スペイン語
宗教 カトリック
首都 マドリード
大統領
1873年2月12日 - 6月11日 エスタニスラオ・フィゲーラス
変遷
アマデオ1世の退位 1873年2月11日
王政復古1874年12月29日
通貨ペセタ
現在スペインの旗 スペイン
スペインの歴史
スペイン国章
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スペイン第一共和政スペインだいいちきょうわせい、西: Primera República Española)は、1873年に国王アマデオ1世が退位した後、翌1874年王政復古するまで続いたスペイン史上初の短命な共和政体である。公式国名はスペイン共和国(República Española)であった。この言葉は、後のスペイン第二共和政と対比する表現である。

概要[編集]

共和国の設立は、 1873 年2月10日のアマデオ1世国王の退位後に続いた。その翌日、議会では、議会の過半数によって共和国が宣言された。この期間は、連邦共和派と統一共和派の間の政治的抗争によって左右されることとなった。その為、一旦、連邦共和制が宣言されたものの、当初の11か月で、4人の大統領が、短期間で入れ替わるという事態で、紛糾した政治状況であった。この間、国内では1872年から続く第三次カルリスタ戦争、遠隔領土では、1868年から続く第一次キューバ独立戦争(十年戦争)という戦争状態が継続する中であり、また、1873年にはカントンの反乱(スペイン語版)(Rebelión cantonal) という国内問題も発生した。政治的不安定さに加え、財政困難や経済不況の中、暴力の発生で、混乱の時期であった。1874 年1月のパヴィア将軍のクーデターで連邦共和制が終り、セラーノ将軍の独裁による統一共和制が誕生した。しかし、1874 年12月、アルセニオ・マルティネス・カンポス将軍は、ヴァレンシア州サグント宣言を行い、イサベル2世(スペイン女王)の息子をアルフォンソ12世として王位に就かせることで、ブルボン家の王政国家に戻った。

共和制への前段階[編集]

思想的背景[編集]

19世紀のスペインでは、国家体制の構築に関して、3つの思想が対峙していた。これらは、自由主義、伝統主義、連邦共和主義である。1830年~1840年の10年の間にかけて優勢だったのは、立憲君主制で、宗教的(カソリック)国家、中央集権モデルに基づく自由主義思想が柱であった。

19世紀の半ばには、前述の自由主義とは、全く異なる連邦共和制のモデルが支持を増やした。これは、君主の存在しない民主共和制(男子普通選挙制を基本とする)、また、カトリック教会との関係において中立な国家、連邦制(様々なモデルがある)という主張である[1]。連邦共和制は、庶民・中産階級の一部の要望に答えたものであり、政治形態ばかりでなく、社会的構造の改革も提示した[2] 。彼らは、米国建国精神を手本にして、個人の尊厳に基づいた連邦主義を主張していた。しかしながら、概念や理論はあったものの、その具体化に関しては成熟していなかった。[3]

1868年革命と臨時政府[編集]

1860年代には、イサベル2世女王に対する不満が広がっていた。1864年には、マドリ-ド中央大学の学生への制圧や、1866年には、オドネル将軍の自由連合政権が支配していた王政を打倒するために、マドリードで反乱が起こった。これは、進歩党と民主党の後押しがあったとされる。これは失敗し、66人の砲兵が銃殺された。また、それ以前からの産業危機が、1866年には金融危機となり、鉄道会社やバルセロナの2つの銀行危機に発展し、大衆に危機感を与えた。さらに、1867年と翌年には、農産物の不作に見舞われ、暴動が起きる都市もあり、王政への不満が爆発する背景となった [4]

1868年9月末には、複数の将軍らが率いる軍による蜂起が起こり、イサベル2世女王は、国外逃避を余技なくされた。これは「1868年革命」と呼ばれている。10月始めには、セラーノ将軍を中心として臨時政府 (1868年-1871年)が作られた。それは、自由主義連合、進歩党、民主党の3党によるものであった。1869年6月には、身分制議会(コルテス)にて、新憲法が承認された。臨時政府は、欧州内で相応しい人物を探したが、これは困難な業であった。最終的に、1870年イタリアサヴォイヤ家のアマデオを国王とすることを国会は承認し、1871年1月マドリードアマデオ1世として戴冠となった。この期間は、アマデオ王の在位期間と共和国制の時代を含めて「民主主義の6年」(1868-1874年)と呼ばれる [5]

民主連邦共和党の立党[編集]

このような時代的変化の中、様々な政党が形成され、1869年、民主連邦共和党(Partido Republicano Democrático Federal)が立党された。これは、1849年に設立されていた民主党を基にしたものであった。1869年秋、臨時政府の下で君主制を政府形態とする憲法が承認された時、連邦共和派の代議員の多くは、この法案が制定されるやいなや、議会を去っていた。

翌1870年、第一回連邦党会議が開催された。この中では、フランシスコ・ピ・イ・マルガイは、「下から上へ」(地方から中央へ)と協定を累積することで、連邦共和制を構築するという意見であった。一方、ニコラス・サルメロンとエメミリオ・カステラルは、「上から下へ」(中央政府から地方へ)という手順であって、方向性において違いがあった。同会議では、すでに起こっていた反乱主義的な道とは対照的に、合法主義的な道を採用することも合意された。

穏健派と過激派の分裂[編集]

1872年に開催された同党の第3回党会議では、この合法主義派(穏健派)と非合法的なこと(暴動等)もいとわない急進派(過激派)の違いが顕著になった。フランシスコ・ピ・イ・マルガイは、合法主義派であって、「急進的な道は、個人の自由を妨げる。」と考えていた。急進派は、彼が、革命的な手段を採らないことで、6月にこれと決別した。それから数ヶ月後のその秋には、アンダルシアエクストレマドゥーラカタルーニャバレンシアアラゴン州で、 急進派に率いられた連邦共和派の反乱が起こった。

共和国の宣言[編集]

共和国宣言への経緯[編集]

臨時政府から依頼を受けて、イタリアから王位に就いていたアマデオ1世は、1873年2月11日、国内の絶え間ない困難により、スペイン王位を2年余りで退位した。彼の時代は、第三次カルリスタ戦争、第一次キューバ独立戦争、また、イサベル2世前女王の息子アルフォンソを支持して、ブルボン王政を望んでいた君主主義者、共和主義者の反乱等もあった。

退位の翌日、国会の上下院議員は、常設会議場に集まり、これまでの身分制議会(コルテス)を国民議会と改称する宣言を行った。議会で圧倒的多数を得ていたのは、それまで、政権を行使していた2つの王政政権党の、急進民主党と立憲党であった。国会には、少数ではあったが共和党員もいた。その政党は、地方も尊重する連邦主義と中央集権主義に分かれていた。

その中の、連邦民主共和党議員、フランシスコ・ピ・イ・マルガイは、「国民議会が権限を引継ぎ、共和国を政府携帯として宣言し、その組織を国民会議に委ねる。」という提案をした。また、その後、エミリオ・カステラル共和党議員等が、演説を行った。その後、賛成258票、反対32票で、共和国の樹立が宣言された。

しかしながら、その議会には、君主主義者が多数選出されていたことで、これらの可決は、国民を驚かせた。しかしながら、現実的には、君主主義者にとっては、イサベル2世女王を復帰させることや、若かったアルフォンソ王子を戴冠させることは不可能であり、共和国制度は、一時的な実行可能な選択となった。

一方、共和主義者や急進派が占める市等では、デモが行われた。このような状況は、暴力的に展開し、バレンシアマラガセビリヤ等で、死傷事件に発展した。

フィゲラスによる政府[編集]

政権の成立[編集]

共和国の最初の政府は、連邦共和主義派と急進派の協定にによって成立した。この内閣は、連邦共和国主義者3人と急進派5人によって構成されその内4大臣は、アマデオ王に使えていた者達である。連邦共和主義は、地方州により権限を与える連邦制主義であり、急進派は、より中央に権限を集める主義である。

問題[編集]

共和制の宣言がなされたものの、当時の政府は、相当な財政赤字を抱えており、社会でも、1873年の世界的不況(大不況)と時を同じくしたことや政治の不安定が影響し、深刻な経済危機にあった。これは、失業率の上昇をもたらし、プロレタリア運動によるスト、デモなどの問題が発生していた。特にアンダルシア州では、共和制というのは、「土地の再配分である」という認識で捉えられており、いくつかの地域で、富裕層の屋敷への襲撃、公館への焼き討ち、土地文書の廃棄、個人への復讐等が起こった。このような暴力的行動は、連邦共和主義者によるものであって、フィゲラス政権が、旧来の君主主義者との連立である点で、生温いとして認めない勢力もあった。

民主連邦共和党は、カタルーニャ州、アンダルシア州で、最も支持されていたが、一方、それらの州で、最も暴力沙汰が発生していた。新政府の当面の政策は、秩序をもたらす対策で、フランシスコ・ピ・イ・マルガイ統治省大臣は、様々な政策を施した。その中の1つとして、2月14日には勅令を出し、以前にあった「自由志願兵」(君主主義派)を再編成して「共和国志願兵」(Voluntarios de la República)と名を改め、統治省に属することとした。また、地方レベルの行政官を君主主義者から共和主義者へと交代させた。一方、引き続く戦争と政府資金難の対策として、2月18日には、皆兵制度が廃止され、現金支給のもと志願兵制度とする法が可決された。しかし、6月の時点で、4万8千人の募集枠に1万人しか集まらず、この政策は功を奏さなかった。

第二次フィゲラス政権[編集]

急進派のクーデター失敗[編集]

この政府を構成していた、連邦共和派と急進派の協力関係は、その大臣らの意見の違いにより、僅かな期日で破綻した。2月22日夜には、急進派のフェルナンデス戦争省大臣が辞任した。これを契機に、共和制宣言の僅か13日後である翌23日、新国会議長で、急進派のリーダーであったクリスティーノ・マルトスが、連邦共和主義派を排除して、急進派による中央政府を中心とする統一共和国を樹立しようとの行動にでた。彼は、北方軍の将軍などの支援を取り付けて、警備隊に統治省と税務省を占拠させ、国民民兵が下院議会を占拠する、というクーデターを計画した。しかし、ピー・イ・マルガイ統治大臣は、素早く反応し、共和国義勇兵を国会に差し向けた。24日朝には、マルガイは議会に来たが、そこは警備隊と兵士に占拠されていたものの、マルトスと面することとなり、これは未遂に終わった。

これを契機に、2つの勢力による協力関係は反故となり、内閣改造が促され、急進派大臣3大臣は退き、連邦主義者に置き換えられた。マルトスの試みは、彼の意図とは完全に逆の結果となった。しかし、国民議会は、急進派が多数を占めていたことで、この解散を促す必要が出てきた。3月4日に、政府は、国民議会を解散し4月10日~13日あたりに選挙を行う意向を公表した。

しかし、急進派は、これに抗議をし交渉が継続した。その末、急進派のプリモ・デ・リベラ将軍の仲介により、国民議会で検討中であった、プエルト・リコでの奴隷制の廃止等の3案件を採択するまでは、解散しないという合意案が提案された。マルトスは、再び政権を取る武力的な試みを企てたが、共和国の強硬派が反乱が起こすことを懸念した。紆余曲折の末、急進派マルトスの試みはうまくいかず、3月9日に議長を辞任することになった。その後議長になったのは、これも急進派のフランシスコ・サルメロンである。

カタルーニャ問題[編集]

一方、カタルーニャ州議会は、強硬な連邦共和主義者が支配していたことで、2月21日には、カタルーニャ国を認めるよう要求する騒ぎが起こっていた。これは、同州出身であるピー・イ・マルガイの送った電報で一応落ち着いていた。しかし、3月9日には、再び、同様な行動が起こった。12日には、やはり同州出身のフィゲラス自身が、バルセロナに到着し、「共和国が生きていく為には、秩序が必要だ。」として、このような騒乱を鎮めた。

4月23日のクーデター未遂[編集]

議会の常設委員会は、急進派が多く、政府とは関係が困難になっていた。また、社会では、無秩序、無政府状態が続いていた。4月22日の夜に、急進派であった当時のマドリード市のフアン・パブロ・マリナ市長が、君主主義系の国民民兵を招集して当時の闘牛場に、武装して集合させていた。彼らは、急進派の軍人将軍らの了承も得て行動していた。23日になった深夜、常設委員会は、国会内で会議を開いていたが、武力勢力間の対峙が知らされると、閣僚たちは直ちに会議を取りやめ、その直後、共和国側の有志が代議員会を占拠し、委員会のメンバーに退去を命じた。急進派と保守派は抵抗したが、エミリオ・カステラル大臣によって議会を取り囲む武装した暴徒から守られながら、午前2時頃にようやく退去した。一方、ピー・イ・マルガイ統治大臣は、共和国志願兵を、州都の重要拠点に配置していた。共和国志願兵等を闘牛場へ向かわせたところ、国民民兵らは、数回の発砲をしたのみで退却した。翌24日、ピー・イ・マルガイは、常設委員会を解散したが、これも、違法な手段であった。この後、マドリードや他の地方でも、著名な人々に殺人予告があったり、個人宅が襲撃されたりしたことで、友人の家の隠れたり、変装して身を隠したりする事態になった。また、共和制が成立するのを予期して、フランスなどに移り住む富裕層もいた。5月6日、解散された急進派や保守派の常設委員会のメンバーは、24日の解散について抗議文を公表し「暴力的で違憲な決議」と訴えた。このように、急進派のクーデターは失敗したが、一方、その反動で共和派の別の形のクーデターが成功したことになった。

5月の国民議会選挙[編集]

このピー・イ・マラガイによる常設委員会の解散は、エミリオ・カステラルとニコラス・サルメロンによって、率いられる連邦共和党の一部から、疑問が投げかけられた。というのは、この決断によって、他の急進派、穏健派や他の政党がが、選挙そのものを拒否し、選挙の正当性が損なわれることを懸念したからであった。このような騒然とした状況の中で、その懸念の通りに、ほとんどの主要な政党は、選挙に参加しないか、棄権を呼びかけることになった。3月11日に可決された法律により、5月10日から4日間の投票が行われた。投票年齢は、25歳から21歳に引き下げられたことで、有権者の数は、50万人増え450万人となった。しかしながら、全体の投票率は40%ほどで、マドリード州で約25%、カタルーニャ州では約28%であった。この結果、選挙は、主催した政府側である連邦共和党によるほぼ独占的な議席配分となり、371議席中、343議席を占めた。

連邦共和国の宣言とフィゲラス政権の終焉[編集]

この議会は、6月1日に召集され、6月8日には、賛成票218票、反対票2によって、連邦共和国の成立が承認、宣言された。連邦共和党の独占的な国民議会であったが、その議員も、50~60名の4つの派閥に分かれていた。ここで内閣が組閣されるところであったが、その選出をどのようにし、だれが承認するかなどの論議が行われた。様々な不毛な議論の中、エスタニスラオ・フィゲラス暫定大統領は、「率直に言うが、私はもう我々全員にうんざりしている!」とカタルーニャ語(カタラン語)で叫んだ。フィゲラスは、夫人をクーデターの頃に亡くしており、深い失望と鬱の中にあって、6月10日、パリへ出奔した。彼は、誰とも話さず、レティロ公園を散歩して、アトーチャ駅からパリ行きの列車に乗ったという。

第一共和政期の大統領[編集]

脚注[編集]

  1. ^ La Federal. La Primera Republica española. Sílex. (2023). pp. 12-32 
  2. ^ Manuel Suárez Cortina『La Federal. La Primera Republica española. Madrid』Sílex、2023年、14頁。 
  3. ^ Peyrou, Florencia (2011-05-24). “La larga historia de la democracia española” (スペイン語). La Vie des idées. https://booksandideas.net/La-larga-historia-de-la-democracia. 
  4. ^ Josep Fontana and Ramón Villare『La época del liberalismo. Vol. 6 de la Historia de España』Crítica/Marcial Pons、2007年。 
  5. ^ LOS ABOLICIONISTAS ENTRE 1833 Y LA REVOLUCION DE 1868”. www.cedt.org. 2024年2月10日閲覧。

関連項目[編集]