カラジョルジェ

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ジョルジェ・ペトロヴィチ
肖像画

在位期間
1804 – 1813
先代
次代 マルス

在位期間
1811 – 1813
先代 ヤコフ・ネナドビッチ
次代 ムラデン・ミロヴァーノヴィッチ

出生 1768年
死亡 1817年
、セルビア
埋葬 トポラ
王室 カラジョルジェヴィチ家
父親 ペートル
母親 マリヤ
配偶者 ヘレナ        
子女
シマ、サヴァ、サラ、ポレクシア、スタメンカ、アレクサ、 アレクサンダル・カラジョルジェヴィチ
信仰 セルビア正教会
親署
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カラジョルジェ(Karađorđe、セルビア語キリル文字:Карађорђе、発音  [kârad͡ʑoːrd͡ʑe] ; 1768年11月3日 - 1817年7月26日)ことジョルジェ・ペトロヴィチ(Karađorđe Petrović、セルビア語キリル文字:ЂорђеПетровић、発音  [d͡ʑôːrd͡ʑepětroʋit͡ɕ])は、オスマン帝国に反抗するナショナリズム運動である第1次セルビア蜂起の指導者。近代セルビアの祖と仰がれる。

生涯[編集]

1813年のセルビア領
カラジョルジェのサイン

彼は、セルビアの寒村に生まれた。オーストリア・トルコ戦争で、オーストリアの組織した義勇軍に参加し、軍事的経験を積み、のちの戦争において、その経験な、大いに役立つこととなる。戦後故郷近くのトポラと言う街に戻り、一時、山岳地で対オスマン帝国のゲリラ闘争を続ける山賊と行動をともにした。そののち、商売をはじめ、豚を売る事を専門とする商人として富を築いた。オスマン帝国のイェニチェリの横暴な行為に対する蜂起の準備が進められると、これに加わり、見事指導者に選出された。そして、セルビアはカラジョルジェ率いる1804年の蜂起とミロシュ・オブレノヴィッチ率いる1815年の蜂起によりオスマン帝国から制限つきながらも自治権を獲得した。1830年にはギリシャの独立と露土戦争に伴って、完全な独立を果たした。一方、首都ベオグラードにはトルコ軍守備隊が1867年まで駐屯した。しかし、彼はその後も、完全独立をめざし、活動を続けた。しかし、その半ば、1817年に暗殺された。首謀者は、セルビア蜂起にともに携わってきたミロシュ・オブレノヴイッチ(後のセルビア公・ミロシュ1世)であった。オブノレヴイッチは、カラジョルジェを殺したことにより、セルビアのリーダーの地位を手に入れた。遺体は、自宅のあったトポラに埋葬された。

なお、あだ名の「カラジョルジェ」とは、黒いジョルジェを意味する名である。

カラジョルジェヴィチ家[編集]

カラジョルジェヴィチ家の紋章

カラジョルジェがカラジョルジェヴィチ家の祖である。アレクサンダル・カラジョルジェヴィチセルビア公)は、カラジョルジェの息子である。のちに、彼の子孫は、セルビア王国、そして、ユーゴスラビア王国の王家、「カラジョルジェヴィチ家」となる。カラジョルジェヴィチ家は、1945年のユーゴスラビア共和国成立までの間、王国に君臨する。

その後のセルビア[編集]

セルビア人は国家・社会の両面から革命を打ち出した。同時にセルビアは徐々にヨーロッパの国家社会に追随しブルジョワ的な価値観を導入し、二度の蜂起とそれに続くオスマン帝国との戦いの結果独立セルビア公国が成立することとなり、1878年に国際社会の承認を得ることに成功した。セルビアは1817年から1882年まで公国であり、1882年から1918年までは王国だった。この期間の内政は、オブレノヴィッチ家(革命の第2のリーダー、ミロシュ・オブレノヴイッチの家)と、カラジョルジェの家であるカラジョルジェヴィチ家の両家の抗争で激動した。

関連項目[編集]