オウエン・テューダー

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Armoiries Owen Tudor.svg

オウエン・テューダー(Owen Tudor, ウェールズ語:Owain Tudur, 1400年頃 - 1461年2月2日)は、イングランドの王家となったテューダー家の祖。12世紀における南ウェールズデハイバース英語版国王リース・アプ・グリフィズ英語版の末裔であるとされる。イングランド王ヘンリー7世の祖父。


生涯[編集]

イングランド王ヘンリー6世の母后カトリーヌ(ヘンリー5世の未亡人)の納戸係秘書官として仕えていたが、ヘンリー5世の死後に事実上の婚姻関係を結ぶ。若くして未亡人となったキャサリンは、枢密院の許可がない限り再婚が認められておらず、1437年に38歳で没するまで、生前は2人の結婚が正式な手続きに於いて認められることはなかった。

薔薇戦争ではヘンリー5世やヘンリー6世の属するランカスター派の一員としてウェールズの軍勢を率いたが、1461年にモーティマーズ・クロスの戦いでマーチ伯エドワード(後のエドワード4世)に敗れて捕らえられ、処刑された。息子ジャスパー(後述)はこの戦場を離脱することに成功した。

子孫[編集]

オウエンとキャサリンの間に生まれた男子のエドマンド及びジャスパーの兄弟と、異父兄(ヘンリー5世の子。当時の正規の王統)であるヘンリー6世との仲は良く、世間の暗黙の了解の上での(事実上)公認の弟となり、それぞれ「リッチモンド伯」「ペンブルク伯」に叙爵された。

のちエドマンドはサマセット公ジョン・ボーフォートの娘のマーガレット・ボーフォートと結婚した。このマーガレットの血筋(ボーフォート家はランカスター王家の傍系)により、エドマンドとマーガレットの間の子であるリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(オウエンの孫に相当する)は王位継承権を持つこととなった。父のエドマンドはヘンリーの出生する3か月前に戦場で捕えられて刑死しており、その後は叔父のジャスパーが養育した。親子は生前に対面したことはない。

薔薇戦争の混乱の中、ヘンリー自身も敗北して叔父ジャスパーと共にフランスに逃亡するなどし、一旦は敗勢となったランカスター朝支持派であったが、残党らの支持を集めたヘンリーは、王位継承権を主張したのち叔父らと共にヨーク朝の王リチャード3世ボズワースの戦いで戦死させ、またヨーク朝エドワード4世の長女エリザベス・オブ・ヨークと婚姻を結ぶことで統合の象徴となりイングランド王位を継承し、テューダー朝の祖ヘンリー7世となる。


キャサリンの墓には「ヘンリー5世の未亡人」であることしか書かれていなかったが、孫のヘンリー7世により、彼の出自を明確にする意図から「オウエン・テューダーと結婚」した旨が追記された。これ以降、カトリーヌとオウエンの結婚は公認のものとなった。


子女[編集]

キャサリンとオウエンには3子、または4子(3男1女)があったとされる。