札幌事件

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札幌事件(さっぽろじけん)とは、平成2年(1990年)1月4日に北海道札幌市北海道神宮近くで、五代目山口組(組長は渡辺芳則)初代誠友会石間春夫会長が、共政会系の右翼団体維新天誅会(実質的な会長は稲田組稲田鉄夫組長)会員2人組に射殺された暴力団抗争事件


札幌事件発生まで

昭和59年(1984年)夏、共政会島上組島上守男組長は、配下の稲田組稲田鉄夫組長を、北海道札幌市に派遣した[1]

同年7月、稲田鉄夫は、札幌市で、右翼団体維新天誅会を結成した。また、稲田鉄夫は、札幌市で、金融業を営んだ[2]

昭和61年(1986年)3月、四代目山口組(組長代行は中西一男誠友会(会長は石間春夫)組員が、散弾銃で、維新天誅会事務所に銃弾を撃ち込み、火炎ビンで車を炎上させた[1]

同年3月、維新天誅会会員が、誠友会組員を銃撃し、重傷を負わせた[1]

その後、誠友会と維新天誅会は和解した。誠友会と維新天誅会の間で「維新天誅会は、誠友会に1千万円を支払うこと[2]。維新天誅会は右翼活動に専念し、ヤクザ稼業には進出しない」という取り決めがなされた[3]

平成元年(1989年)1月21日午前0時40分、石間春夫は満期釈放で、宮城刑務所から出所した[4]。維新天誅会は出所祝いとして、清酒を石間春夫に送ったが、石間春夫は清酒を維新天誅会に突き返した[5]

同年11月、島上守男は、稲田鉄夫に盃を与えて、島上守男の舎弟とした[3]。稲田鉄夫は、北海道で、正式に稲田組組長を名乗った。稲田鉄夫は、維新天誅会会長に別の男を据えた[5]

同年暮れ、石間春夫は、維新天誅会からお歳暮を受け取った。お歳暮ののしには、「稲田組」と書かれてあった。石間春夫は、維新天誅会の実態が共政会稲田組だと知り、お歳暮の受け取りを拒否した[5]

平成2年(1990年)1月4日、石間春夫は、新年初めて、誠友会本部事務所に顔を出した。当日は朝から雪だった。昼過ぎに吹雪に変わった。

同日午後4時、石間春夫は、吹雪の中、ボディガード役の誠友会組員を車に乗せずに、メルセデス・ベンツの車の後部座席に乗り込み、運転手と2人で石間春夫の自宅へ向かった。石間春夫の乗ったメルセデス・ベンツの車は、防弾ガラス付の総長専用車両ではなかった[6]

維新天誅会会員は2台の白い車に分乗して、石間春夫の乗るメルセデス・ベンツの車を追跡した。

札幌事件

同日午後4時15分、石間春夫の乗るメルセデス・ベンツの車は、札幌市中央区北海道神宮近くの北一条西28丁目の交差点(北一条通の西端で、円山公園に隣接)[7]で、赤信号のため停車した。後方の白い車から、2人組の維新天誅会会員が降り、石間春夫に向かって拳銃で銃弾10発を発射した[7]。石間春夫は、5発の銃弾を心臓と右脇腹に撃たれた[7]。運転手は、石間春夫を札幌市立病院に運んだ。

維新天誅会の2台の車は逃走した[8]

同日午後5時、石間春夫は、札幌市立病院で、出血多量のため[8]死亡した。

札幌事件終結までの経緯

同年1月5日から、札幌市で約500人、北海道で約2000人の警察官が、JR駅、空港などに配置された[9]

北海道警は、捜査本部を札幌西警察署に設置した。捜査本部長には、北海道警刑事部長・山本博司が就任した[10]

同日午前11時15分、五代目山口組(組長は渡辺芳則若頭宅見勝宅見組組長)、山口組若頭補佐・英五郎英組組長)、山口組若頭補佐・倉本広文倉本組組長)、山口組若頭補佐・前田和男黒誠会会長)、山口組若頭補佐・司忍弘道会会長)、若頭補佐・滝澤孝芳菱会総裁)が、全日本空輸57便で、千歳空港に到着した[10]

その後、北海道警は、宅見勝らに、空港会議室への任意同行を求め、事情聴取を行った。北海道警察は、宅見勝に、北海道から帰るように要請した。宅見勝は、北海道警の要請を拒否した[10]

同年1月6日午後6時、石間春夫の通夜が営まれた。

同年1月7日午前9時、北海道夕張郡長沼町良昭寺で、石間春夫の密葬が営まれた。当初、石間春夫の葬儀は札幌市内で行われる予定だったが、北海道警が札幌市内での石間春夫の葬儀を阻止した[9]。宅見勝[9]ら山口組関係者など約500人が参列した。北海道以外から葬儀に参列した山口組組員は約150人だった[10]

同日、北海道警は、輸送車7台やパトカーを配置し、機動隊を含み警察官300人を警備に当たらせた[9]

五代目山口組・渡辺芳則組長は、山口組からの共政会への報復を認めなかった[11]

同日午後2時ごろ、札幌市南区の旅館で[12]、北海道警察捜査本部は、石間春夫を射殺した維新天誅会会員2人を、銃砲刀剣類所持等取締法違反で(S&W38口径の拳銃1丁を所持)[12]、逮捕した。

その後、維新天誅会会員2人は、石間春夫殺害を自供した[12]

同年1月8日、山口組緊急幹部会が開かれ、山口組組員全員に禁足令を出すことが、決定された[13]

同年2月2日、共政会は、共政会稲田組・稲田鉄夫組長を絶縁とし、共政会島上組・島上守男組長を破門とした。絶縁状及び破門状は、島上組組員全員と稲田組組員全員に対して出された[14]

同年2月4日午前2時30分、誠友会川口組組員の乗ったパワーショベルが、札幌市中央区の稲田鉄夫所有の5階建てのビルに突っ込んだ。ビルの3階以上が稲田組組事務所だった。ビルの前には、札幌中央警察署の警察官10人と機動隊員20人が警戒のため、張り付いていた。誠友会川口組組員は、パワーショベルのアームで、2階の麻雀店の窓を割り、2階と3階のベランダを破壊した。その後、誠友会川口組組員は、パワーショベルを何度もビル1階のゲームセンターにぶつけて、1階の入り口を壊した。その後、誠友会川口組組員は、パワーショベルが停止したため、運転席から降り、警察官に建造物損壊の現行犯で逮捕された[15]

同年2月5日、東京で、山口組副本部長・野上哲男(二代目吉川組組長)と共政会幹部が1回目の和解交渉をを行った[16]

同年2月5日、北海道警は、120人の警察官を動員して、誠友会本部や誠友会幹部宅など16箇所を捜索した[17]

同年2月10日、稲田鉄夫は、札幌中央警察署宛に、稲田組の解散届けを提出した。札幌中央警察署は、稲田組組員に札幌市からの退去を命じた[18]

同年2月12日、午前3時45分ごろ、誠友会組員3人が、それぞれタイヤショベル、トヨタ・クラウンのセダン、パワーショベルに乗り、タイヤショベル、クラウン、パワーショベルの順に、再び札幌市中央区の稲田鉄夫所有の5階建てのビルに突き進んできた。稲田鉄夫所有の5階建てのビルには、北海道警と札幌中央警察署の警察官30人が張り付いて、警備に当たっていた。警察は、ビル前の道路の一部に進入禁止の柵を設けていた。タイヤショベルは、柵を乗り越えて、稲田鉄夫所有の5階建てのビルに突っ込んだ。警察官は、鉄製の車止めを運んで、クラウンの突入を防いだ。パワーショベルは、停止させられたクラウンに、行く手を阻まれた。別の誠友会組員たちが、稲田鉄夫所有のビルの近くのビル2箇所から、稲田組組事務所に向けて、ライフルと散弾銃で銃弾を撃ち込んだ。その後、タイヤショベル、クラウン、パワーショベルを運転していた3人の誠友会組員は、建造物損壊の現行犯で、警察に逮捕された[19]

同年2月17日、山口組美尾組組員[20]が、広島市中区流川の島上組組事務所に、銃弾10数発を撃ち込んだ[21]

同年2月23日、広島で、野上哲男と共政会幹部が2回目の和解交渉を行った[16]

同年2月24日、広島市中区小町[21]の島上組事務所近くの駐車場で、島上組組員・松村和美が、乗用車で通りかかった数人連れと口論となり、右[20]腹などに3発の銃弾を受け、重傷を負った。

同年2月27日夜、山口組系譲心会組員が、広島市中区流川の島上組組事務所に、拳銃で銃弾5発を撃ち込んだ。譲心会組員は、その場で警察官に取り抑えられた[20]

同日、神戸で、野上哲男と共政会幹部が3回目の和解交渉を行った[16]

その後、広島県警は、平成2年(1990年)2月17日に島上組組事務所に銃弾10数発を撃ち込んだ美尾組組員を、指名手配した[20]

同年3月1日朝、稲田組組員が、家財道具を取りに、ワゴン車で、札幌市に戻った。稲田組組員は、誠友会の車に発見されて、ワゴン車で逃げた。稲田組組員の乗ったワゴン車は、電柱にぶつかって大破した。誠友会組員は、拳銃で、稲田組組員の頭部を撃ち、重傷を負わせた[20]

同年3月2日、野上哲男と共政会幹部が4回目の和解交渉を行った[16]

同年3月3日、山口組最高幹部会で、山口組幹部全員が、山口組と共政会の和解を了承した[16]

同年3月4日、共政会相談役・門広、共政会・藪内威佐男副会長、共政会・沖本勲理事長、共政会・片山薫副会長が、神戸市の山口組を訪れ、石間春夫を射殺したことを謝罪した[16]

同年5月14日、山口組若頭補佐桑田兼吉と共政会・沖本勲理事長(後の四代目共政会会長)との兄弟が交わされた。

脚注

  1. ^ a b c 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.210
  2. ^ a b 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.236
  3. ^ a b 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.211
  4. ^ 出典は、山平重樹『北海道水滸伝』双葉社<双葉文庫>、1999年、ISBN 4-575-50698-2のP.420
  5. ^ a b c 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.212
  6. ^ 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.207
  7. ^ a b c 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.202
  8. ^ a b 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.203
  9. ^ a b c d 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.205
  10. ^ a b c d 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.206
  11. ^ 当時、共政会は当代不在で、反山口組派と非山口組派に分れていて、どちらの派閥の犯行かわからなかった
  12. ^ a b c 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.208
  13. ^ 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.255
  14. ^ 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.218
  15. ^ 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.219~P.221
  16. ^ a b c d e f 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.234
  17. ^ 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.221
  18. ^ 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.230
  19. ^ 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.222~P.223
  20. ^ a b c d e 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.232
  21. ^ a b 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.231


参考文献