コンテンツにスキップ

「菖蒲城」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
画像の追加等
35行目: 35行目:


==外部リンク==
==外部リンク==
* [http://www.city.kuki.lg.jp/kanko/kanko_info/map2/pdf/map9.pdf 「菖蒲4時間コース」 久喜市観光ウォーキングマップ 久喜市ホームページ]
*[http://woodone9959.web.infoseek.co.jp/c-1-3-4-10-siro-sixyoubu.html 菖蒲城(ザ・登城)]
* [http://woodone9959.web.infoseek.co.jp/c-1-3-4-10-siro-sixyoubu.html 菖蒲城(ザ・登城)]


[[Category:埼玉県の城|しょうふしょう]]
[[Category:埼玉県の城|しょうふしょう]]

2011年8月27日 (土) 21:25時点における版

菖蒲城址(2011年6月)

菖蒲城(しょうぶじょう)は、武蔵国埼玉郡新堀村(現在の埼玉県久喜市菖蒲町新堀)にあった古河公方足利成氏が、康正2年(1456年)に金田式部則綱に命じて築城させた。城の竣工が5月5日菖蒲の節句にであったために命名された。天正18年(1590年小田原の役ののち廃城となり、以降は徳川家康に仕えた内藤正成が栢間陣屋(現在の久喜市菖蒲町下栢間)を構えて5700を知行し、上級旗本として14代、幕末まで同地を治めた。

歴史・沿革

享徳4年(1455年)6月、足利成氏が室町幕府および管領上杉氏との抗争の過程で、鎌倉より古河へと転戦する際に「武州少府」に一時逗留した旨の記述があり、この「少府」を「菖蒲」の地に比定する説も有力。城主の金田氏は菖蒲佐々木氏ともいわれ、近江国佐々木氏の末裔されるが詳細は不明。初代の金田則綱は古河公方足利成氏の家臣となり、氏綱、顕綱、定綱、頼綱と続き、6代秀綱の時に忍城成田氏長に属し、豊臣秀吉の関東侵攻により廃城。その後子孫は帰農し大塚姓を称した。金田氏の墓所は曹洞宗久林山永昌寺にある。

考古資料

旗本内藤家栢間陣屋裏門(2011年6月)

遺構

菖蒲園の入り口には旗本内藤家栢間陣屋裏門が1998年に移築されている。明治政府により陣屋は破却されたが、裏門は領内の名主だった三須家に引き取られていた。

現在は遺構は残っていないが、1996年にバス停建設による埼玉県道12号川越栗橋線の拡幅工事前の発掘調査が実施され、平安時代竪穴住居跡や中世土塁状の遺構が出土。

遺物

上記発掘調査により、14世紀常滑産板碑延文6年・1361年銘を含む)、16世紀石臼や石、鉄砲の弾丸、大量の土器、陶磁器永楽通宝などの古銭が出土した。

ギャラリー

観光

アクセス

周辺

  • 城址には菖蒲園があり、35,000株の菖蒲が植えられている。

文献

  • 埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書 第232集 南埼玉郡 菖蒲町 『菖蒲城』 主要地方道川越栗橋線関係埋蔵文化財発掘調査報告 1999年

関連項目

外部リンク